2017年3月1日水曜日

富士氏の上洛と富士と今川

今回は富士氏でも富士親時と富士信忠の間、ちょうど15世紀終盤から16世紀中盤にかけての富士氏について考えていきたい。まず15世紀の富士氏は、既に武力を用いて戦を重ねていたことで知られる。例えば駿河国に焦点を当てると、「永享の乱」(1438年)時の駿河国は今川家のお家騒動の最中であり、彦五郎(後の今川範忠)支持派と千代秋丸支持派とで真っ二つとなっていた。富士氏は千代秋丸支持派に回り、彦五郎を推す室町幕府と対立した。これらの過程は『満済准后日記』に見え、明らかに武力を用いていることが分かる。

下って「享徳の乱」時には享徳四年(1455)「上杉持朝書状」「醍醐寺文書」等から室町幕府側として戦に参加していることが確認でき、宛より富士忠時が家督であったことが確認できる(→享徳の乱と富士氏)。しかし忠時と父「兵部少輔入道祐本」との確執が生じるとお家騒動まで発展し、寛正年間は混乱期となった。幕府の介入等の結果、文正元年(1466)の「足利義政御内書」で富士親時の富士大宮司職就任が確認できる。まとめると、15世紀前半で既に武家様の動向が確認でき、またお家騒動もこのとき生じた。15世紀後半は富士忠時に変わり富士親時が家督の時代に入った、という流れである。


15世紀の動向を大まかに振り返ってみたが、実はこの15世紀終盤から16世紀中盤までの富士氏に関する記録が急に制限されている節がある。系図上は「親時-信盛-信忠」であるが、親時と信忠の間の記録が少ないのである。より後世であるのに記録が少ないことには違和感を覚える。15世紀終盤の親時の動向として、明応2年(1493年)作成の十一面観音像に「檀那富士大宮司親時」という銘が残り、檀那として作成に関わったことが分かる。また明応6年(1497年)に「富士浅間宮物忌令」を出している。この前年の記録として、本名が見えない形で富士氏の人物が見えるものがある。「富士中務大輔」である。


明応5年(1496)の文書であり、足利将軍家の足利義澄が「富士氏」及び「葛山氏」に対して申し付けをするものである。内容は新将軍就任に対する「御代始御礼」が無沙汰であると非難した上で、上洛して釈明することを命じている。また合わせて、上洛が遅れれば所領に対する御成敗(所領没収)があるだろう、とも言っている。

この文書から読み取れることに、富士氏が必ずしも幕府に従わないことから独自性・独立性を模索していたと考えられる。葛山氏に向けたものでもあるため葛山氏との共通点を考えていかなければならないが、葛山氏も独立性を模索していたのであり、またそれ故に中央(室町幕府)との距離を置いていたと考えられる。これらについて『室町幕府の東国政策』では以下のような見解を示している。

明応年間の政治的動向をみると、明応2年(1493)、京都における明応の政変に加担して足利義澄の異母弟堀越公方足利茶々丸をねらい伊豆国に襲撃した伊勢宗瑞(北条早雲)は、なおも生き延びた足利茶々丸との抗争を明応7年まで繰り広げていたことが知られる。(中略)つまり室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給されたこの明応5年という年は、伊勢宗瑞らにとって軍事的緊張がもっとも高まった時期だったのである。そして伊勢宗瑞らの一連の行動は、異母弟足利茶々丸によって自身の実母円満院と同母弟潤童子を殺害された将軍足利義澄の支持を得ていた可能性が高い。それゆえ明応5年の将軍足利義澄による葛山氏への室町幕府奉書の発給は、伊勢宗瑞らとは若干の距離をおく葛山氏に対して将軍みずから政治的圧力を加えるとともに、言外に伊勢・今川両氏への協力を葛山氏に要請するものであった可能性が考えられるのである

これを富士氏で置き換えて考えた時、おそらく富士氏は政治的自立性の維持に努めていたのであろう。ここでいう「政治」とは浅間社内に関することであり、また富士大宮司の後継の選択等が考えられ、これらへの介入を拒んでいたのではないか。葛山氏の場合もう少し形が異なり、同氏は駿河郡・御厨地域および富士郡の一部にも支配領域を持っており、これら地域下における権利保持がまず第一に考えられる。また葛山氏は交通路の掌握にも長けており、これらへの介入も望ましくないと考えていたのであろう。それが「距離を置く」という形になって現れていたと考えられる。

この期間の空白は、その心理が背景にあったと考えたい。ただ戦国時代も過熱を迎え、次第に今川陣営に取り込まれている様子が見て取れる。例えば『勝山記』の大永元年(1521年)の記録に「富士勢負玉フ」とあり、武田氏当主武田信虎との戦で富士氏が出陣している事が分かる。このとき今川氏と武田氏は一進一退の攻防を繰り返しており、そこで富士氏の関与が見出だせるということは、おそらくこのときには今川氏陣営であったのだろう。


「中務(大輔)」を官途名とする富士氏は、他に『塵塚物語』に見出すことができる。『塵塚物語』は史実性に欠け疑問が残る記録ではあるが、存在しない人物を取り上げているかと言われればそうでもなく、室町時代の人物が中心となり物語を賑わせる構図となっている。『塵塚物語 二』の「鹿園院殿の別荘 三重の金閣と埋木の流話」に以下のような記録がある(参考文献の現代語訳より)。

去る中秋、ある武家の会合の席で、この金閣の話が出て、座の者一同が耳をかたむけ、しきりに関心しているところへ、奥から、富士の神職で、大宮に住む中務という者が走り出て、一同を見下げ「だいたい都の人々は、都以外をよくご存知の方が少ない。そのために、その一枚の天井板をおひとりおひとりが素晴らしいなどと言われるのである。富士山の埋木というものには、その板の倍の大きさの木がたくさんある。まず、私の家に二間の杉障子がある。それは一枚板である。うたがわれる方は私と一緒においでになれば、お目にかけましょう」と、小声で語ったところ一座の人々は手を叩いて関心し、そのほかの話はしなくなってしまった。

というものである。「富士の神職」「大宮」ということから富士氏を指していることは間違いないが、実際にこのようなやりとりがあったかは不明である。しかし上の文書によると将軍足利義澄により上洛を強く促されているのであり、京都に富士氏が居ることは全くおかしなことではない。少なくともここに「中務」と出てくることは決して偶然ではなく、やはりこれが記された当時「中務(大輔)」を官途名とする人物が富士氏の中心に居たのである。当時富士氏の存在は中央まで届いていたことは明白であるし、それがこのような説話に登場する背景となっていたのである。私見としては、金閣寺に出向いているか否かは別として、富士氏はその後上洛したのだと考えている。

  • 参考文献
  1. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,思文閣出版,2014
  2. 鈴木昭一訳,『塵塚物語』(原本現代訳〈63〉),教育社,1980
  3. 『静岡県史 資料編7 中世三』P83

2017年2月13日月曜日

富士市の島地名と水害そして浅間神社

浅間神社の総本宮は富士山本宮浅間大社(富士宮市)であるが、隣接する富士市域にも浅間神社は多く存在する。現在の富士宮市域は中世より≒富士上方と称され、富士市域は≒富士下方と称されてきた。富士市域は大きく「旧富士市域」「旧吉原市域」と大別でき(現在からするとやや大きすぎる分け方である)、例えば権威を誇った富士下方五社はどちらかと言えば旧吉原市域に偏る。

しかしこれらを見ていると、自然に以下のような疑問が湧き出してくるものである。それは
(吉原と比したとき)旧富士市域は富士山から遠くまた登拝路も限られるのにも関わらず何故浅間神社の分布が旧吉原市域並に存在しているのか
という疑問である。そして米之宮浅間神社以外は軒並み創建が下る(時代が新しい)ということも特徴としてあり、これらも疑問となってくる。

この疑問に答えてくれるのが富士市立博物館刊行物『加島 米と水』(企画展解説図録)である。同図録に以下のような説明がある。

富士山の裾に位置する加島にも米之宮浅間神社をはじめとして10社がまつられていますが、米之宮以外はすべて加島南部という狭い地域に集中しています。この地域だけで、富士山南西麓における浅間神社の1/4を占めています。(中略)米づくりのために開かれた村が、水神・農耕神的な性格を持つ浅間神社を勧請するに至ったのは不自然なことではないと思われます。

新田開発が行えるようになったのは比較的後世のことなので、旧富士市側の浅間神社というのは創建が比較的新しいのである。地名を見てみると旧富士市域に「島」がつく地名が大変に多い。「島」が付く地名に対して「幕末・富士川下流域の農事」では以下のように説明している。

周囲には森島・中島・川成島など島がつく地名が多い、これらはかつて富士川の氾濫原の中で島のようにみえた微高地の集落であると伝えられている。またこれらはほぼそのまま近世村の村名となり、島がつく村名は加島二十六ヶ村のうち九村に及ぶ。

とある。つまり富士川の氾濫でその土地が水に浮かぶ島のように見えたことから由来する、と言っているのである。例えば「川成島」(成=なる)などはそのままである。当ブログでは明治期の地名から「島」の付く地名(大字)を割り出してみることとする(タイトルの「島地名」とはこれらを指す)。
下表の吉原→図中での旧吉原市のこと 下表の富士→図中での旧富士市のこと


自治地名
加島村(富士)中島 五味島 水戸島 森島
田子の浦村(富士)柳島 鮫島 宮島 五乄島 川成島
島田村(吉原)荒田島 青島 田島 田島新田
伝法村(吉原)瓜島

共通の割り出し方法で試みたが、如何に旧富士市側で「島」がつく地名が多いのかが分かる。また面積比で考えてしまうと圧倒的とも言える。これは富士川流域がどちらかと言えば旧富士市側であったためである。また加島村域には「宮下」という地名があるが、『加島 米と水』は宮下についてこう記している。

宮下を歩くと、あちこちに石垣で周囲を補強され、高さを整えられた畑や屋敷があることに気づきます。このような高低の差が生じたのは、かつて富士川の氾濫によって土砂が宮下に流れ込み、土地が不均一になったためだと語られています。(中略)そもそも宮下の名は、山神社というお宮の下に集落が開けたことに由来していると語られています。山神社はかつて宮下では最も富士川寄りに位置し、その境内の敷地は大井川流域の舟型屋敷(舟形の形態をとることによって洪水・氾濫から敷地を守る)のように、富士川に向けて奥宮が舳先、鳥居が艫になる舟形を呈しています

まず「」は神社を意味する語である。そしてこの地に「山神社」があり、山神社の下に集落が開けたために「宮下」という地名となっているのであるが、例えばこのようなランドマークがなければやはり他の「中島・五味島・水戸島・森島」同様「〇〇島」という地名になっていたに違いない。

水神社(富士市松岡)
また以下のようにもある。

加島平野は富士川の扇状地であり、富士川がもたらした砂礫によって形成されています。(中略)江戸初期に富士川の治水が進み、加島には次々と新田や新しい村が開かれていきました、近年までタバショ(田場所)と呼ばれていた水田地帯を生み出します

治水により新田開発が進んでいったが、地名としてはそのまま残ったという形であろう。新田開発により米の栽培も可能となり、『駿河国新風土記』に以下のような記述がされるまでに至る。

米ハ早稲、多く他村に先ち熟す、7月中に出す、此を加島米と称す

とあるという。また水害が多かったことは、中世資料からも見出だせる。永禄12年(1569年)6月、武田信玄は駿河侵攻の過程で富士氏の大宮城(富士城)に攻め入り、これを落城させた。
武田信玄
大宮城主「富士信忠」は後北条氏の勧めもあり穴山信君を通じて開場し、駿河大宮は武田氏のものとなった。これらの動向を『甲陽軍鑑』ではこう記している

永禄12年6月2日に、信玄公、甲府を御たちありて、駿河ふじの大宮(注:富士宮市のこと)へ御馬を出さる(中略)同18日に、三嶋をやき、がわなりじまに御陣をとり給ふ、一夜の内に大水いで、信玄公の諸勢、道具を津なみにひかれ候へども、無何事早々甲府へ御馬をいれ給ふ

つまり武田信玄は川成島に陣を張ったが大水が出て道具等も水にさらされ、甲府への撤退を余儀なくされたのである。「大水いで」「津波」とあり、海方面からの水害を推測させる。陣を置くような場所であるから完全に沿岸とは考えられにくいが、そのような地であっても道具が水にさらされるような状況に容易に陥り得る地だったのである。しかしこの頃の富士川流域は現在より東側であったとされるため、これが富士川の氾濫を指す可能性も考慮しておく必要性がある。「下」(海)からも「横」(富士川氾濫)からも水害の危険性を有していたのである。

この富士下方の地で「島」とある場所は、基本的に類似した地理的環境にあったと推測できる。これら水害を抑えるに成功するのは、雁堤の完成まで待つこととなる。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館『加島 米と水』,1998
  2. 荻野裕子,「幕末・富士川下流域の農事」『民具マンスリー第33巻10号』,2001
  3. 富士郡役所「静岡県富士郡々治一覧表」,1893年