2013年5月20日月曜日

富士山における庚申縁年

富士山には庚申縁年という考え方が存在する。「庚申」は以下の年度が該当し、その年は富士山にって特別な年となるわけである。次の庚申縁年は2040年である。

16世紀以降の庚申年一覧
年号西暦
明応9年1500年
永禄3年1560年
元和6年1620年
延宝8年1680年
元文5年1740年
寛政12年1800年
万延元年1860年
大正9年1920年
昭和55年1980年
---2040年


なぜ庚申が「縁年」と考えられているかについては、「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承による。しかしそれは「庚申と富士山がどう関係するのか」という場合の話であって、背景には浅間神社の社人や御師などがその恩恵などを人々に示したためであろう。

庚申年は登山風俗上も大きな変化があり、例えば女人禁制が一時的に解除される。また縁年という有難味から、特に道者が多く訪れる。道者が多く訪れることから、奪い合いも激しさを増す。庚申縁年の状況を示すと思われる有名な史料は『妙法寺記』である。明応9年(1500)の条に

此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走ヘ皆導者付也

と記されている。これは関東の乱が影響して特に須走口に道者が集中したという、須走口の状況を示した記録である。「限りなし」は、明応9年の庚申の年ということもあって多くの道者が訪れたのだと解釈できる。

また歌川広重の浮世絵の詞書や、葛飾北斎の『富嶽百景』には「考霊天皇5年富士山出現」を示すとされる記載がみられる。

延年である延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある。これは当時「庚申縁年」の認識があったことを明確に示している。また正福寺は吉田に位置し、富士山信仰と関わりがあったことが指摘されている。この当時富士講は未だ発生していなかったことを考えると、富士講発生以前にも吉田には庚申縁年の伝承は根付いていたと考えて良い。『妙法寺記』の記述では庚申との関係性は明確ではない。しかしこの木版から、いっそはっきりするのである。

また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には

六月富士山参詣之導者面口六千人程有、…

とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。

また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。

これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。

これらのことから、延宝8年(近世前期)にはすでに庚申縁年の考え方が相当広範囲に広まっていた、と考えられる。この年に多くの道者が富士山を目指して各信仰登山道集落にやってくることは、事前に予測されていた。しかもこのことは延宝八年に初めておこったのではなく、それ以前にも庚申年に信仰登山道集落に多くの道者が押し寄せた経験があったからこそ、その再現が期待されていたものと思われる。

とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。

公文富士氏「導者付帳」(慶長17年)による
年代西暦人数
元和元年161520
元和2年1616217
元和3年1617412
元和4年1618438
元和5年1619119
元和6年1620746
元和7年1621348
元和8年1622207
元和9年162352


明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。

大鏡坊文書
年代西暦人数
享保13年1728311
天文5年17401440
寛政5年1793400/500
寛政6年1794600
寛政7年1795500
寛政8年1796400/500
寛政10年1798400/500
寛政12年18002000
享和元年1801200


「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。

そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。

またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。

  • 参考文献
  1. 菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008

2013年5月7日火曜日

村山修験と富士郡各地域間との富士野論争

村山修験の衰退の理由の1つとして、そして村山の凋落を物語る出来事として「富士野論争」がある。この論争は比較的知られているが、複雑で掴みづらい所はある。

しかしこの論争が、基本的には「大宮と村山」という二大勢力間で行われたことは間違いない。そしてこの富士郡において大きな動きであったことは間違いないだろう。

※富士野とは富士上方の富士山西南麓一体を指す。古くは『吾妻鏡』などで名が見える
  • 明歴期の論争
以下の15もの地域が村山三坊の大鏡坊を訴えたのが明歴期の論争である。
  1. 富士郡大宮町
  2. 山本村
  3. 星山村
  4. 岩本村
  5. 入山瀬村
  6. 杉田村
  7. 久沢村
  8. 厚原村
  9. 野中村
  10. 中里村
  11. 下小泉村
  12. 若宮村
  13. 源道寺村
  14. 黒田村
  15. 淀師村
この争論は以下のような過程で経過していく。


史料5の段階では、訴訟側の地域として「天間」「上中野」「若宮村」が追加されているようである。

また寛文9年には別の野論が再燃しており、大鏡坊により富士野への草刈が留められたことを発端に蒲原領・加嶋領・甲府領の39の村が訴えを起こしている。

  • 延宝の争論
明歴期の論争にて確定した(村山三坊支配の)境界外の場所において新規に薪取りを止められ、また鎌取などの被害にあったことを発端とし、延宝2年(1674)に蒲原領・加嶋領・甲府領の37の村が訴状を提出して村山三坊の非法を訴えた論争が延宝の争論である。

延宝の争論は以下の過程で経過していく。


そして延宝7年についに決着することとなる。それが以下の裁許である。



駿河国富士郡大宮町、以下蒲原領・加嶋領・甲府領などの計42の村々が冨奥院・村山三坊を訴えたものである。この裁許状は老中大久保忠朝以下10名の老中と三奉行が連名している。内容は以下のようなものである。

  • 冨奥院の流罪
  • 村山社領とされた地も含めて、論所は「入会地」と新たに認定する
  • 地西坊・大鏡坊の江戸十里四方と駿河国の追放
  • 村山修験と関わる山宮・粟倉・上小泉村の人々の追放

これにより、村山修験の浅間社のある土地などは、富士山信仰の地としての性格は大きく薄れたとみてよいだろう。また村山三坊の追放などから、力・権威を大きく失うこととなった。村山修験衰退の1つの原因であることに間違いないだろう。

  • 参考文献
  1. 宮原一郎,「近世前期の富士村山修験と野論争論」『國學院大學校史学術資産研究(紀要)第3号』,2011