2015年4月24日金曜日

富士山本宮浅間大社と静岡浅間神社の浅間造の相違点

富士山本宮浅間大社本殿は「浅間造」と称される独特の建築で知られる。その本殿について記す文献があるので、その類の資料から実像に迫っていきたい。まず静岡浅間神社と富士山本宮浅間大社の浅間造の明確な違いは、以下の点である。

富士山本宮浅間大社→本殿が浅間造
静岡浅間神社→拝殿が浅間造

双方の浅間造の建築については、「浅間大社本殿と静岡浅間神社拝殿の形態的特徴について」が詳しい。内容については明確に誤った部分もあり信憑性にやや疑いを残しつつつも、実際見ないと分からない部分もあり参考となる。

そこで両浅間社の上層平面図を眺めると、上層部分の床に下層から上層へのアプローチ空間をみることが出来た。図面の表記から浅間大社本殿では階段が設置されていることが分かるが、静岡浅間神社拝殿では取り外し可能の板が床面に確認できる。(中略)両浅間社に聞き取り調査を行った際に上層空間へのアプローチについて聞いたところ、図面の表記通り浅間大社本殿では常設の階段が、静岡浅間神社拝殿では床面を外し梯子を架けることが確認できた。また、静岡浅間神社拝殿で梯子を架ける際には狩野栄信・狩野寛信の天井絵が描かれている。(中略)狩野派によって描かれた絵がある天井絵を頻繁に取り外す事はないと考えられ、梯子を架けることはほとんどなかったのではないかと推察できる。以上より、常設の階段が設置されている浅間大社本殿は上層部分を使用する事を計画して設計されたものだと考えられる。一方で、静岡浅間神社拝殿は非常設の梯子による上層空間へのアプローチであることから、上層空間の使用は考えていなかったと考えられる。

独特の建築で知られる宇治平等院などは、左右の翼廊上層部分に似たような建築がある。この部分のみ取り出すと、浅間造と非常に類似しているのが分かる。現地で実際拝見してみたが、人間が上層部分に(余裕をもって)入れる程の隙間は無かった。ある意味では、静岡浅間神社に近いと言える。

同氏の論文で『富士山本宮浅間大社本殿の重層建築形態に関する再検討-新史料の紹介を含めて-』というものがある。

一方、大正時代の修理工事の際に作成された図面によると礎石から箱棟頂部まで四丈九尺であることがわかる。これより、江戸時代の記録と比較すると最大で九尺の違いがあることが分かる。また、明治時代に本殿から御神体が発見されるという出来事があったのだが、その時の記録によると「主典古矢之三階下ノ梁上二、筥有ルヲ見出シ」とあり、三階部分から発見されたと記されている。もちろん明治時代の本殿は現在の本殿の社殿同様に二階建てであり、三階という表現は不可解である。しかし大社の神主の間では三階という表現が用いられていた事は興味深い事である。

おそらく、外見としては「二重」であるため、『富嶽之記』(1733年)では「本殿二重閣」とあり、『駿河記』(1809年)などでは「本社二階」とある。しかし内部の人間はそこに階段があることを知っているわけなので、「三階」とする記録があるのだろう。しかし個人的には、明治時代の記録に歴史性はあまり感じないので、中世-近世で「三階」という意識があったとはあまり思わない。

本殿は社の中でも重要な箇所であり、その上層部に御神体があるのは全くおかしなことではない。御神体に多くの機会をもって関わるということは無かったため、人が上層空間を使用する意図で階段状にしたかは疑問が残る。この御神体は、富士大宮司ですら容易には見ることができなかったものなのである(建部恭宣,「浅間造の研究5」を参考)。明確な意図があったかどうかは分からない。

  • 参考文献
  1. 佐藤翔二,「浅間大社本殿と静岡浅間神社拝殿の形態的特徴について(駿河国浅間社社殿の研究その1)」学術講演梗概集2013, 387-388, 2013
  2. 佐藤翔二,「富士山本宮浅間大社本殿の重層建築形態に関する再検討-新史料の紹介を含めて-」,日本建築学会関東支部研究報告集 83(II), 645-648, 2013
  3. 建部恭宣,「浅間大社本殿上層について(浅間造の研究5)」,学術講演梗概集F-2, 25-26, 1999

2014年12月30日火曜日

富士山本宮浅間大社と棕櫚との関係と富士氏の家紋

富士氏の家紋、特に富士大宮司家の家紋は「棕櫚」である。『長倉追罰記』に

…同六郷モ是ヲ打、シユロノ丸ハ富士ノ大宮司、キホタンハ杉カモン…

とあることから、富士大宮司の家紋であることは史料からも裏付けがなされている。近世の資料(幕府裁許状)にも「棕櫚葉之紋」とある。

棕櫚であることの意味として、例えば『姓氏・地名・家紋総合事典』(新人物往来社)では「神霊の宿る葉として昔から尊ばれた」と説明している。この家紋を考える上でよく言われるのは「羽団扇との関係」である。先の辞典では続いてこうとも言う。

あやまって天狗の羽うちわといわれたりもしたものは、やはり霊異の作用からである。駿河の浅間社では神紋としている。

他「天狗の研究」では以下のように記している。

天狗の勢威の強い社寺が用いる幕紋の羽団扇は天狗の持物にちなんだ紋かと思われるが、羽団扇紋は現来、富士浅間神社の宮司富士氏の家紋で、『太平記』にも、旗印の紋づくしの中に、「白旗、中黒、棕櫚の葉、梶の葉の紋書きたる旗ども、その数満々たり」とある

としている。史料から考えると、富士大宮司の家紋は「棕櫚」または「棕櫚の丸」であり、そこには団扇の要素はないと思われる。もしそうであれば、史料上にて「棕櫚団扇」といった文言などがあってもおかしくはない。

『太平記』の記述は、富士大宮司を指している可能性がある(が、太平記自体は記述の信憑性が薄い部分がある)。この記述は『太平記』巻31の「笛吹峠戦事」の条にある。現代語訳を下に記す。

同月28日、尊氏は笛吹峠へ押し寄せ、敵陣の様子をご覧になったところ、小松が生い茂り、前には小川が流れている山の南側に陣を構えて、峰には南朝の印である錦の御旗を掲げ、麓には白旗、中黒、棕櫚の葉、梶の葉の紋を描いた旗が満ちていた。

内容からして明らかに南北朝時代である。まず富士氏についてであるが、既に南北朝時代には武家として戦を重ねていたということは知られている。それは最近の研究で更に色濃くなっている。そして「棕櫚の葉」「梶の葉」と続くことも重要である。というのは、梶の葉は諏訪氏の家紋であり、同じ社家である。この記述が実際見たものでないと仮定しても、やはりこの連続性には意味があると思う。

また曼荼羅図や境内図に棕櫚が描かれることが多い点も重要である。

「富士浅間曼荼羅図」より
「浅間大社境内絵図」より

浅間大社境内を指す絵図類にて、棕櫚が描かれていることが多い。当時実際植えられていた可能性もあるし、少なくともこれは明確な意図があるのである。

  • 参考文献
  1. 丹羽基二,『姓氏・地名・家紋総合事典』,新人物往来社,1988
  2. 知切光歳,『天狗の研究』P184-185,大陸書房,1975