2014年8月12日火曜日

江戸期作成の浅間大社境内絵図を考える

「浅間大社境内絵図」は、2種類が知られている。寛文10年(1670年)に寺社奉行に提出した境内絵図と(以下「境内絵図」とする)、その写しとされる宝永5年(1708年)の境内絵図写である(以下「境内絵図写」とする)。

「境内絵図」寛文10年(1670年)

「境内絵図写」宝永5年(1708年)

「境内絵図」と「境内絵図写」は基本的には同じ構図であるが、細部は異なるという重要な事実もある。例えば「境内絵図」では三重塔の横は空白となっているが、「境内絵図写」では棕櫚の木が追加されているのである。

棕櫚の木の存在は、非常に重要な点である。境内図だけでなく、富士曼荼羅図にも棕櫚の木は描かれているのである(参考:県指定富士浅間曼荼羅図を考える)。

「富士曼荼羅図」(県指定)に見られる棕櫚の木

つまり追加された絵柄が棕櫚であることには、意味があるのである。今回「境内絵図写」を詳細に見る機会を得たので、ここで簡単に説明をしていきたいと思う。


「本殿」および「三之宮浅間神社」「七之宮浅間神社」などが描かれる。


入り口には狛犬が位置する。扉絵は松と梅(か)。二階構造であり、複雑な斗栱をなしている。その独特な建築と、家紋が詳細に描かれている点が、当境内図の最大の特徴である。また神仏習合を明確に示す点も特徴と言える。

この独特な建築の呼称についてであるが、現代の呼称である「浅間造」と記すものは、歴史的史料では見いだせない。明治期の史料において初見とされる(浅間造の研究3)。ちょうど境内図写が記されたとされる宝永5年(1708年)と同年の記録に、「大宮司別当公文案主連署造営見聞願写」がある。その記録では「寶殿造」「三軒社」と見える。その他「二重造」「二階造」「樓閣造」といった呼称が古記録では確認されている。


「◯◯◯◯◯」→「葵・棕櫚・葵・棕櫚・葵」ということで良いと思う。

浅間大社社殿の家紋については、『富嶽之記』の「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」という記述が知られる。そして現在も、蟇股に菊葵の紋に該当する部分は現存している。この記録は享保18年(1733年)のものであるので、境内絵図を寺社奉行に提出した寛文10年(1670年)とはかなり時を隔てている。

享保18年の時点で既に「菊の御紋」の装飾はあったのか、それとも存在したが境内絵図では描かれなかったのかは分からない(もしくはどこかに描かれているのかもしれない)。そもそも家紋は現在蟇股に存在するのであって、境内絵図では逆に蟇股ではない部分に見える。それらの差異もあるので、完全なる一致はないのかもしれない。デフォルトされている可能性も考える必要性がある。

また「リアルタイムの状況を本当に記しているのか」という点もある。「浅間造の研究6」には以下のようにある。

宝永5年の年紀を有する「大宮司別当公文案主連署造営見分願写」によると…続けて「廻廊三ヶ所 護摩堂 宝蔵 経蔵 三味堂 神馬厩」等29箇所について「右者四十年以前潰レ申候所堂社二而御座候御事」と記されている。したがって、14棟あった仏教建築のうち「鐘楼堂」を除く13棟は、寛文9年(1669)以前に何らかの理由によって「潰レ」ていたことが判明する

とあり、仮に寛文9年に描かれた場合、それは復原的に描いたものであるという可能性を指摘している。つまり描いた当時、それは無かった可能性はあるのである。しかし少なくとも、境内絵図や当時の記録にて葵紋が登場することに間違いなく、いかに富士山本宮浅間大社が徳川将軍家に庇護されて来たのかが端的に分かる。

安永8年(1779年)の「幕府裁許状」には以下のようにある。

慶長5年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社不残らず御再建成せられ、其後散銭等は修理に致すべき旨、…

とあり、関ヶ原の戦いの戦勝成就として造営されたのである。この経緯から、葵紋があることは極めて妥当と考えられる。


◯◯◯◯◯◯→「棕櫚(か)・葵(か)・棕櫚・葵・棕櫚・葵」に思われる。

つまり境内絵図では、「葵紋」と「棕櫚紋」が交互に装飾される特徴が見られるのである。「棕櫚紋」は言わずと知れた富士氏の家紋であり、また浅間神社の神紋である。

棕櫚が浅間神社の神紋であることは間違いなく、静岡浅間神社(新宮)の宝物にも棕櫚を模した宝物が多く残っている。天正15年(1587)に徳川家康から寄進されたと伝わる「蓬莱山鏡」および「鏡台」には棕櫚紋が見える。また「御檜扇」(扇子)の模様も棕櫚が描かれており、それらが浅間神社の宝物である点を考えても相違ないと思われる。


この境内図は、かなり多くの部分で棕櫚が登場するわけである。


三重塔と棕櫚の木

三重塔と棕櫚の木である。







以下の画像の囲っている箇所にあるものは「護摩堂」である。

説明を追加
護摩堂については、永禄3年10月26日「今川氏真判物」(戦国遺文今川氏編1598号)にて名が見え、中世には存在していたことが確認できる。護摩堂や三重塔は仏教的建造物である。中世、または近世にかけても神仏習合が成り立っていたことを明確に示していると言える。

参考文献
  1. 建部恭宣,「浅間造の研究」(1-10)『東海支部研究報集』,1(1998)-10(2004)
  2. 静岡市教育委員会編,『静岡市文化財資料館収蔵品 図録』,2001年
  3. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』P174-182, 角川書店,2002

2014年6月25日水曜日

永享の乱時の富士氏

永享の乱(1438年)とは、室町幕府将軍である足利義教が鎌倉公方の足利持氏討伐を決定し生じた一連の戦乱を指す。

まずこの時の駿河国は、大変に混乱した状況にあった。というのも、駿河国守護である今川家のお家騒動があったためである。当時の今川家当主である今川範政は、後継者に嫡子である彦五郎ではなくまだ幼い千代秋丸を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。そこで駿河国の国人間では、彦五郎支持派と千代秋丸支持派とで分かれることとなった。

室町幕府としては、幕府側の戦力であり鎌倉公方と交戦すると想定される今川氏のお家騒動は、当然望ましくない状況であった。また千代秋丸の母が扇谷上杉氏出身(鎌倉公方と関係が深い)であることから、千代秋丸の家督継承は望ましいものではなかった。そのため室町幕府は彦五郎の家督継承を望み、その関係から千代秋丸支持派の討伐が必要な状況であった。

そこで駿河国の国人である富士氏を当てはめて考えると、富士氏は千代秋丸支持派であった。つまり室町幕府からみれば、討伐対象であったのである。そしてその後室町幕府の支援を受けた彦五郎勢は、千代秋丸支持派を鎮圧した。こうして「彦五郎=今川範忠」は今川氏五代目当主となった。

しかし室町幕府としては、これら千代秋丸支持派を排他的に扱う程の余裕はなかった。むしろこれら一連の動向を罷免し、鎌倉公方への交戦戦力として期待する方針の方がずっと効率的であったのである。その過程で発給されたものが、以下の文書である。


これは今川貞秋の駿河国への入部を、当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人らに伝える文書であり、忠節を求める文書である。内容から永享10年(1438年)に比定されている。室町幕府管領である細川持之の奉書であるため、室町幕府の意向として出されたものである。以下からは、当文書について考えていきたい。
参考1

「細川持之書状写」には「富士大宮司殿」と「富士右馬助殿」とある。双方とも富士氏の一族であるが、一方が富士大宮司であるため「富士右馬助」は当然富士大宮司ではない。富士大宮司と成りうる一族のみが「富士姓」を名乗っていたわけではないということは知られているが、まずそれを理解できる文書である。また「富士大宮司殿」と「富士右馬助」双方が戦力と考えられていることから、当時富士大宮司のみが武力を有していたわけではないと理解できる。また並んで記されている事実から、「富士右馬助」は富士大宮司に並ぶような権威を保持していたと言える。なので当地の政治を語る時、富士大宮司だけに焦点を当てるのはおかしいのである。領主「富士氏」として考えなければならない。

次に「富士大宮司」と「富士右馬助」とは誰なのか、という疑問が出てくる。まず富士右馬助についてであるが、やや時代が下って「享徳の乱」の頃の複数の文書にて確認できる。

この双方の富士右馬助について、「十五世紀後半の大宮司富士家」では以下のように説明している。

道朝書状写の宛名に見える右馬助が、持之書状の右馬助と合致するかは不明ながらも、同人もしくは彼の先代とも考えられる。すると持之書状の宛名に大宮司の名も見えることから、右馬助系の富士氏は嫡流ではないが、富士氏の嫡流に比肩するほどの有力一族であったと推測することができる。

とし、「参考2」より道朝書状写の右馬助を富士忠時であるとしている。これは文書の内容からほぼ確実であると言える富士忠時は文明10年(1478)の仏像に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるように富士大宮司となっているため、「富士右馬助」系の富士氏も富士大宮司に成りうるということになる。
参考2

富士忠時と能登守の経歴は以下のようにまとめられる。


年号内容
寛正3年(1462)「後花園天皇口宣案」(戦今川・2665)より、富士忠時の能登守への昇官が打診される
天正元年(1466)「足利義政御内書写」(戦今川・28)より富士忠時が能登守となっていることが確認できる
※1462-1466年の間に富士忠時が能登守となっているということが確認できる
文明10年(1478)の時点木造大日如来坐像(戦今川・2668)に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるため、このとき能登守を辞している可能性高い
※「戦今川」とは戦国遺文今川氏編を指す

富士大宮司については、系図から単純に考えれば富士直氏または富士政時と考えられるが、検討が必要である。

つまり永享の乱時の富士氏は、「駿河国内での今川氏家督相続問題」と「東国西国間を舞台にした戦乱」という2つの状況に挟まれる状況にあった。またある意味富士氏にとって、富士家の進退に直接影響する時期であったのかもしれない。このときの富士氏は、今川氏の家臣としての性格は全く伺えない(勝てば官軍なのでそう言い切れないが)。一方これらの文書類から、15世紀時点で既に武家的側面を有することは確実である。領主富士氏の内部構造と性格は、内部構造的には「富士大宮司」と「富士右馬助」の二頭構造にあった。そして富士忠時や富士親時は仏像の造立に関わることから、富士氏の性格として、社家としての側面も間違いなく有していた。ただこの棲み分けは不明である。印象的には、富士大宮司・公文・案主としての三頭体制はやや時代が下るようにも感じる。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年