2011年4月10日日曜日

白糸の滝の歴史

白糸の滝は、静岡県富士宮市に位置する瀑布である。高さは約20m、長さ約120m。富士山の溶岩流(一万年前に噴火により形成)から富士山の雪解け水が湧き出し、滝が形成されている。その姿は「白糸が垂れるが如く」であり、それが名称の由来である。国の名勝および天然記念物に指定されている。新富士火山の溶岩流の一種として「白糸溶岩流」があり、当滝付近に広がる。この溶岩流は4枚の溶岩流層から形成され、白糸の滝では2枚が確認されているという。

『富士山道しるべ』より

  • 富士の巻狩と白糸の滝

「富士の巻狩」の際に白糸の滝を訪れた源頼朝は、以下のような歌を詠んだと伝わる。

この上にいかなる姫やおはすらん おだまき流す白糸の滝


また時代が下り戦国時代において、織田信長がこの付近を通過している。『信長公記』(巻十五)の部分にその記録が見られる。天文10年4月12日に信長は甲斐から大宮へ向かう。4月12日に本栖(甲斐、都留郡)を出て「かみのが原-井出野-人穴」と移動し、南下していった。途中浅間大社の社人たちが出迎え、上井出に至る。記述としては、以下の通りである。

根かたの人穴御見物。爰(ここ)に御茶屋立ておき、一献進上申さるゝ。大宮の社人・社僧罷り出で、 道の掃除申付け、御礼申上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられしかみ井手の丸山あり、西の山に 白糸の滝名所あり

こういう場面でも浅間大社の社人が出てくるところは、富士上方の特徴であろう。信長は、各名所をくまなく回っている。「頼朝かりくらの屋形立てられしかみ井手の丸山あり」ということから、やはり富士の巻狩は当時としても知られたな出来事であったようだ。「丸山」がどこを指すのかは不明であるが、記述から見て井出地区であることには間違いない(参考:信長公記に記された「かみ井手の丸山」)。また何より、「名所」とあることから白糸の滝が古くから広く知られた滝であったことを示している

また、白糸の滝の入り口側には「お鬢(びん)水」という湧水がある。源頼朝が髪のほつれを直したという伝承が残る。 

  • 富士講と白糸の滝
富士講の開祖である角行が水行を行ったと伝わる。修行地がそこであったか正確にはわからないが、富士講信者が滝壺にて修行したという記録は事実として残る。人穴との立行に合わせて白糸にも顔を出し、水行を行ったようである。このように角行が修行を行なったと伝わるこの場所は特別な地となり、富士講信者の巡礼の場となった。滝壺にて垢離をとる信者の周囲に虹が形成されるその様子を「御来光」と表現したともいわれる。『富士山道しるべ』に白糸の滝がでてくるのもその所以であると言える。
  • 参考文献
  1. 桑田忠親,『改訂信長公記』P370-371,新人物往来社,1965年
  2. 富士吉田市歴史民俗博物館,『博物館だよりMARUBI №20』 
  3. 『富士山推薦書原案』

2011年4月9日土曜日

村山修験

  • 村山修験とは
富士山における修験道(山に篭り修行を行う行為)の一派。起源は富士山修験道の開祖である末代上人の意思を継ぐ頼尊が、村山の地に興法寺を開いたことから始まるという。

  • なぜ村山なのか
例えば『地蔵菩薩霊験記』(平安時代成立)には末代上人が村山の地にて活動をし、即身仏となって富士山の守護神になったと記している。この時代における富士信仰に関する記述は、非常に少ない。それだけでなく修行の地が記され、なおかつ明確に富士信仰と確認できる点で非常に重要である。このように古くから修験の地として記録に残る地が村山なのである。「なぜ村山か」といえば、富士信仰の重要人物による活動場所であったことが大きいと言える。「富士信仰とは何か」で記したように、村山修験は律令国家による祭祀とは別の理由から発祥した富士信仰の形態と言えます。


  • 掟判物で見えてくる村山
村山修験の特徴として、「掟判物」がある。これは村山修験の話のときには欠くことはできない。この掟の内容により、村山の性質が見えてくるためである。


「戦国期における村山修験」にあるように、今川家から掟判物が繰り返し発布されている。上記は今川義元が村山三坊の1つ「大鏡坊」に宛てたものであるが、それ以後「天文24年」、「弘治2年」、「永禄3年」、「永禄10年」とほとんど同様の文書が発布されている。

一、於村山室中不可魚類商買并汚穢不浄者不可出入事
「村山室中」の「室」は「村山の空間」として捉えられる。村山という空間そのものが、アジール空間として捉えられていたのである。この一条目は最も重要である。「并汚穢不浄者不可出入事」とあることから、不浄者などを出入り禁止とした「聖地」としているわけである。

一、着来道者可為如前々事
村山に到着した道者への対応として、これまでの習慣に従うようにという内容である。

一、他坊之道者無証拠不可奪取事
他の宿坊の道者を理不尽に奪うことを禁ずる、という内容である。村山は三坊の存在からもわかるように道者坊のある地域でもある。三坊同士での奪い合いを防ぐ目的があったと思われる。

一、六月間為久借不可取質物并道者間譴責使令停止之事
ここの解釈は「戦国期における村山修験」で詳しく書かれている。

一、喧嘩口論不可有他之綺事付雖為通法博奕・押買・狼藉堅停止之事
これは一条目に繋がってくる内容であろう。争いごとや口論などを禁じているわけであり、汚れのない地ということを意識している。道者の関係もあるだろう。

一、悪党之事前々於山中就相計者可任旧規事
「村山における不入権の保障」を意味すると考えられている。これも一条目に繋がってくる内容である。

一、道者参詣之間他之被官以下雖有主人不可押取事右条々所相定也若於違犯之輩者依注進可加下知者也仍如件
文献によると「道者が富士参詣中は、たとえその道者の主人たる身分の者も、その道者に手出しすることは出来ない」というように読み取っている。

「戦国期における村山修験」では、これからの記録から「村山のアジール的性格」を指摘している。「アジール」といえば網野善彦氏であるが、その指摘は私も本当にその通りだと思う。村山というエリアが聖地なのであり、そこは守られた空間であったと私も考えます。

  • 村山三坊
村山三坊とは村山における有力宿坊地のこと。「大鏡坊」・「辻之坊」・「池西坊」を総称して呼ぶ。15世紀以降から宿坊地が増加し始めたと考えられており、統廃合を繰り返し16世紀には3つに収まったそれが村山三坊である。富士山興法寺や登山道の管理も行なっていた。先ほど「村山は聖地として特別な管理をされていた」というようなことをかきましたが、その村山の各施設管理しているのはこの村山三坊であるため、言い換えると村山三坊が絶大な権力を保持していたということになる。外国人で初めて富士登山を行ったラザフォード・オールコックも村山三坊の大鏡坊に宿泊しました。

  • 村山における修行形式 
村山三坊の山伏修行として「富士峯修行」が行われていた。夜間に白装束をまとい山頂を目指して登山を行っていた。富士峯修行の際にはに東麓、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等を行ったという。また村山浅間神社境内に「竜頭滝(池)」という湧水地があり、山伏修行や修験者が水垢離などを行っていた。水の落ち口には不動明王像が安置されている。

竜頭滝(絹本著色富士曼荼羅図)
  • 参考文献 
  1. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978 
  2. 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960
  3. 小林一蓁,「富士修験道」『富士浅間信仰 』,雄山閣出版,1987(POD版が2003年に発売)

2011年4月3日日曜日

富士山本宮浅間大社の文化財等

  • 浅間大社の文化財の傾向 
浅間大社は富士山信仰の社なので、富士山関連の文化財が多い。武田信玄の願状などもあるが、それも「南無富士浅間大菩薩」などと見える。

しかし後の騒動で浅間大社の美術品等の多くは消失している。廃仏毀釈による取り壊しも考えられるが、戊辰戦争終結あたりに静岡にやってきた旧幕臣により、盗難などが頻発したことが大きい。浅間大社(というよりその大宮司の富士氏)は徳川との関係が強かったが、富士重本(富士氏当主)は新政府軍側(徳川からみると敵)につきました。このような都合と静岡に徳川慶喜他旧幕臣が移されたという条件が重なり、浅間大社周辺の治安は悪化していたためです。盗難されたものの中には国宝級もあったと考えられます。

※ここでは一部を紹介しています。


  • 武田信玄願文(元亀元年4月23日)

武田信玄願状


ちなみにこの願文と同内容のもの(文面は多少の差異しかない)が「北口本宮冨士浅間神社」にも伝わっている。その願文についての違和感を若林敦之氏が論述し、また柴辻俊六氏はそれらについて以下のように説明している。

富士宮の本宮浅間神社に信玄が祈願した永禄十三年四月廿八日の北条氏打倒の願文と全く同文のものが、吉田の浅間神社にもあることがおかしいという点であるが、今回、実見したところ吉田のものは紺紙に銀泥で書かれており、宛名の前に「神名」が十八行も書かれており、信玄花押も稚拙で、これは明らかに本宮浅間社のものをまねて作った偽物である

としている。どうやら実際に見られた経験や文面より、北口本宮冨士浅間神社のものは偽書のようである。このいきさつは興味深いが、おそらく威厳を高めるため後世に作成されたものであろう。

  • 富士山本宮浅間大社(国指定史跡) 
いままで重要文化財などには指定があったものの「史跡」としては指定されていなかったものが、2010年に国指定史跡に指定されることが決まったものである。

  • 富士山本宮浅間大社本殿(重文) 
浅間大社の本殿は特殊な建築で 「浅間造」といいます。 徳川家康が造営したもので「富士山が正面に見える位置に上げ、お供え物をする」ということで、このような建築になったと言われている。

  • 太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住景光(重文) 
太刀 銘南无薬師瑠璃光如来 備前国長船住景光
明治45年2月に文化財に指定。武田信玄奉納と伝わる。
読み:「めいなむやくしるりこうにょらい びぜんのくにおさふねのじゅうかげみつ」

『集古十種 刀剣之部 』より
江戸時代の書籍である『集古十種』にこの太刀が掲載されている。「武田信玄太刀」とある。

  • 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国/一期一腰応永廿四年二月日(重文) 


作者は「源式部丞信国」で応永32年(1425)に作成されたものである。「穴山信友寄進状」により、後に穴山信友が奉納したものと判明している。文化財指定は明治45年2月8年。



「穴山信友寄進状」には「騒乱の際消失したこの刀を縁あって手にいれました」とある。




そして箱を新調し、富士山本宮浅間大社に奉納したものである。

  • 太刀(無銘)

武田勝頼の奉納と伝わる。

  • 湧玉池(特別天然記念物) 
天然記念物よりまた別格の「特別天然記念物」に指定されている。市内では同文化財として他に「狩宿下馬ザクラ」がある。1944年(昭和19年)に天然記念物に指定、1952年(昭和年)に特別天然記念物に指定された。自然と文化の両方を兼ね備えた文化財である。

  • 絹本著色富士曼荼羅図(重文) 

読みは「けんぽんちゃくしょくふじまんだらず」で狩野元信作と伝わる。富士山・大日堂・浅間大社・村山浅間神社・三保の松原、駿河湾・東海道・清見寺・富士川などが描かれている。静岡県を代表する絵画である。

  • 山頂信仰遺跡 
富士山山頂の信仰遺跡を指す。富士山の八合目以上と理解して良い。

  • 紅糸威最上胴丸(県指定)

紅糸で毛引に威した五枚胴で形式から最上胴と呼称される。信玄の後継者である勝頼が奉納したと伝えられる胴丸である。胴は鉄砲や鑓による攻撃を防ぐため横長の鉄板を五段に し、武田家の家紋の花菱紋の鋲金具がついている。胴丸とともにあった紅糸威六十二間小星兜には「元亀三年壬申二月日」「上州住康重作」との刻銘があったことから、胴丸も元亀3年(1572)に上野(群馬県)の甲冑師が制作した可能性が指摘される。確実な武田家所用の甲冑として貴重な作例である。(大阪歴史博物館による解説)

読み:「くれないいとおどしもがみどうまる」。武田勝頼奉納。 勝頼の奉納は多いですね。

武田勝頼

盗難された貴重品等は今どこにあるかは分かりません。 しかし、旧幕臣の家系に現存しているとは思うのですが。

青磁類
  • 参考文献

  1. 三浦一郎著,『甦る武田軍団-その武具と軍装』,宮帯出版社,2007年
  2. 『集古十種 刀剣之部 』,郁文舎, 1905年
  3. 静岡県教育委員会文化課 山梨県教育庁学術文化財課編,『富士をめぐる』,2006年
  4. 『浅間神社の歴史』P714-725,名著出版,1973年
  5. 柴辻俊六,『戦国大名武田氏領の支配構造』,1991年
  6. 若林敦之,「永禄~天正期の武田氏-領国支配にかかわる一二の問題-」『静岡学園短期大学研究報告一号』,1988年

2011年4月2日土曜日

富士山本宮浅間大社奥宮

富士山本宮浅間大社(以下浅間大社)は本宮境内と奥宮境内があります。本宮境内は富士宮市街地にあり、奥宮境内は富士山山頂にあります。

「富士曼荼羅図」より


 「近世日本における信仰・参詣と地域社会」、またその論文内容の要旨に以下のようにある。

駿州富士郡大宮(現、静岡県富士宮市)の富士本宮は17世紀初頭に幕府から富士山頂での諸権益所持についての保証と、当時の領主(徳川忠長)から山頂付近は「大宮しはい」との認可を取り付けることに成功していた。そしてこれら裁定を背景に、富士本宮は「山名主」を要として山頂付近一 帯の小屋経 営者の統制を実施し、その支配を確立していたのである。山名主は本来は須走村など山麓村々の住民 であるが、富士山頂での経営活動に従事するにあたっては、近世初頭以来伝統的に富士本宮との支配・被支配関係の下に置かれていた。

この説明は非常に分かりやすい。このように伝統的に(江戸時代以降より)山頂部分は富士山本宮浅間大社が支配を確立する地であった。これは江戸期を通して不変の状態であり、これを把握するとなぜ現在浅間大社が山頂部分を保持しているか理解ができる(ここらへんの話は『富岳旅百景―観光地域史の試み』に詳しいです)。

『日本之名勝』より

この写真のように、当時富士山頂には「鐘」がありました。この部分については「富士吉田市民俗博物館だより MARUBI №37-№40」に詳しいです。

この話(奥宮に至る経緯)をするには、山頂信仰遺跡の話をしなければなりません。

  • 富士山頂には古来より信仰遺跡があった

富士山は山頂に近づくほど強い神聖性を持つと認識されてきました。そのため山頂には宗教的施設が存在していました。例えば噴火口(内院という)も神聖視されていました。弘化4年(1847)の『富士山真景之図』には「空洞ナル内院ヲ仙元大菩薩ト観シテ拝スルナリト云」とあり、内院を浅間大菩薩の御在所とする考えがあったことが伺えます。万延元年(1860)の『富士山道知留辺』には「内院 不二山中央にある所の空坎をいふ 径り十三町深さ一合五勺 是より忽ち雲を生じ忽風を生ず 又是を浅間大菩薩と称して拝する 諸人賽銭を坎中に投入るゝ」とあります。散銭が浅間大菩薩を拝する上での行為であったことがわかります。散銭は中世からの習慣であり、それが江戸時代まで続いていたのです。天保 5 年(1834)の『駿河国新風土記』には「頂上ナル八葉内院ト称セル洞穴、コレ富士浅間大神ノ御座所」とあり、「浅間大菩薩の御在所」とはっきりと明記されています。


建造物としては12世紀に末代(富士上人)により建立された大日堂が初めと考えられ、その後経典や仏像などが山頂に奉納なり埋納なりされてきました。「古代山岳信仰遺跡の研究―日光山地を中心とする山頂遺跡の一考察」によると、以下のようにある。

ここに雪消えとともに消えてしまうコノシロ池があり、池の西側に接して大日堂跡とされている場所がある。狭い範囲に堂の礎石らしい石が散っている。

とある。これが大日堂跡地に比定されるとして、薬師堂は現在の久須志神社である。(元々の)末代が建立した大日堂、またはそれを受け継ぐ施設があったのがこの場所かもしれない(要検討)。

  • 山頂信仰施設が神社化した
廃仏毀釈で山頂の仏像などは撤去され、石像なども首の部分で切断されたりしました。先ほど大日堂と薬師堂が山頂にあったということを書きましたが、これらは寺院(またはそれに近いもの)だったので神仏分離令の影響などにより神社に変えることとなったのです。大日堂は浅間大社の奥宮(富士宮口頂上に鎮座)に、薬師堂は久須志神社(吉田口頂上に鎮座)になりました。なぜ浅間大社奥宮が富士山頂にあるのか。それは古来より浅間大社が富士山頂を管理しており、また廃仏毀釈の煽りを受け旧大日堂などを神社の奥宮とすることで神社としての性格に統一させたためです。

  • なぜ富士山の8合目以上は浅間大社の土地なのか
1609年に徳川家康が浅間大社に散銭の寄進などを行い、浅間大社を庇護する政策を打ち出しています。その後1779年に江戸幕府により山頂の支配権が認められ、それ以後は浅間大社が富士山頂の土地を管理・支配してきました。

徳川家康
このように少なくとも1779年より管理されてきた浅間大社の土地でしたが、明治政府により国有化されてしまいました。これは異例中の異例です。なぜなら国有財産法の「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により全国の寺社の土地などは無償で引き渡されていたためです。これにより裁判が起き、最高裁判決にて浅間大社に返還されることが決まりました。別に新たに与えられたのではなくあくまでも「返還」です。

例えば「推薦書原案」にも…
推薦書原案(途中から)
1609 年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779 年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基づき、2004 年浅間大社に譲渡(返還)された。

とあり、返還という認識が見て取れます。 ここを間違えて理解している人があまりにも多いと思います。

  • 参考文献
  1. 青柳周一,「近世日本における信仰・参詣と地域社会」,1998年
  2. 瀬川光行編,『日本之名勝』,史伝編纂所,1900年
  3. 大和久震平,『古代山岳信仰遺跡の研究―日光山地を中心とする山頂遺跡の一考察』,名著出版 ,1990年