2011年8月31日水曜日

忍野八海と八湖信仰

忍野八海は山梨県の忍野村にある富士山の湧水群です。出口池、底抜池、銚子池、濁池、湧池、お釜池、鏡池、菖蒲池の総称で、天然記念物に指定されています。文化との接点もあり、富士山の文化の歴史を考える上で重要です。

  • 形成
これら八海、いや忍野村一帯というのはかつては山中湖と続いていた湖でした。それが富士山の噴火による溶岩流により分断され、干上がって平地になったことにより形成されたと考えられています。桂川という川の水源だそうです。

  • 八湖信仰
忍野八海は「富士御手洗元八湖」といわれ、富士信仰の霊場でもありました。角行の修行になぞらえたもので、角行を拝めることから形成された習慣であると推測されます。それぞれの池を巡礼する八湖信仰(江戸時代以降)というものが存在していました。内八海・外八海とはまた違うものであり(これになぞらえた)、これらに比べ範囲が狭まれていることから個別のものとして存在したのではないでしょうか。江戸末期には消失したものでしたが、再興に動いた友右衛門なる人物により浅間神社などが修復されたりしたようです。


  • 富士八海とは
混同しやすいのですが、いわゆる八湖信仰(忍野)と富士八海(内八海・外八海)は異なります。八海巡りは富士講信者による巡回のようなもので、時代によりその場所が多少異なります。当初は現在の沼津市と富士市との間に存在したという「須戸(すと)海」を含めて富士八海と言っていました(厳密にいうと富士八海のうち内八海)。しかし後に須戸海の替わりに「泉津湖」を加えて富士八海というようになりました。『甲斐国志』には「富士八海-山中海、明見海、川ロ海、西海、精進海、本栖海、志比礼海、須戸海」とあり、 須戸海が含まれています。このことから、比較的後に「泉津湖」が加えられたのだと考えられます。

このように、富士八海というものは特に甲斐国に準じていたわけではありません。また富士講信者が人穴などを訪れていたことを考えても、富士講の一連の現象は甲斐国固有の現象とは言えなさそうです。

  • 参考文献
  1. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№8』
  2. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№19』
  3. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№20』

2011年8月26日金曜日

戦国時代の富士宮の関所

現在の富士宮市に位置する場所には、戦国期多くの関所があったことが確認されている。

今川義元の判物に
同名新三跡分事、為富士上野関銭、年中一度、…
とあり、「上野関」の存在が確認できる。現在の富士宮市上野と位置は一致している。この周辺は市の機能があったと推測されているが、それと関係していると思う。また他に今川氏真判物に「根原関」なるものがみえ、これも現在の富士宮市根原と一致している。

関所
特筆すべきは「神田橋関」である。これは富士大宮に存在した関で、中道往還の存在を考慮すると「商人関」・「経済関」としての存在意義が強い。富士信忠宛の今川氏真朱印状に「神田橋関」の存在が確認できる。

内容
この朱印状にある「新関」については気になるところである。小和田哲男氏は「新関」という以上、それに対する「古関」があったはずであるとし、とって変えられたことを『今川仮名目録』における内容の実現化によるものであるとしている。また楽市研究をしている安野眞幸氏は、神田橋関の「役所」は今川氏が掌握していたとしている。

現在の富士宮市の地域には「関所が多く存在したんだな」という感覚でよいと思います。

  • 参考文献
小和田哲男,『武将たちと駿河・遠江』(小和田哲男著作集第三巻),P375-378,2001年

2011年8月24日水曜日

富士信忠

富士信忠は氏族は富士氏。第三十代当主にあたる(「富士大宮司系図」)。今川氏と富士氏との関係は範国の時より続いていたが、この頃は今川氏家臣としての立場として武家への転換志向が強く現れている。

  • 大宮城城主として
富士郡大宮には「大宮城」という城があった。大宮は富士氏の根拠地であり、いわば大宮の砦であった。今川氏真(今川氏当主)は永録4年7月に富士氏を城代に据え、信忠は大宮城城主となった。この大宮城は富士氏の武力として機能し、その後の武田氏の駿河侵攻の際は駿甲国境の押えの城として主要な役割を果たす。

  • 富士宮若・富士兵部小輔
信忠は(富士)宮若・(富士)兵部小輔と称されていた。例えば天文6年の義元よりの書状(後に説明)には「宮若殿」とある。また氏政から信忠の書状(後に説明)には富士兵部小輔とある。

  • 花倉の乱
「花倉の乱」は今川氏輝死後の今川家の家督相続のお家騒動である。「栴岳承芳」と「玄広恵探」で争われた。このときに富士信忠は栴岳承芳側についている。

  • 河東の乱
花倉の乱で勝利した栴岳承芳は還俗して義元と名乗る。それまでの北条氏・今川氏両家は良好な関係であった。早雲と今川氏との所以や、武田信虎との戦いの際は援軍を出すような結びつきの強い関係であったからである。しかし義元は武田信虎と手を結ぶという手段を講じた。これにより生じたのが「河東の乱」である。今川氏(今川義元)と北条氏(北条氏綱)との戦いである。「河東」とは富士川以東の富士郡・駿東郡(駿河郡)を指した言葉である。

この河東の乱では場所が場所だけに大石寺への制礼や北山本門寺への禁制など富士郡に関わる動きも多い。天文6年3月には富士信忠が小泉坊に立て篭もり反乱者を討ち取ったことを義元から賞されている。天文6年5月15日には義元が信忠に田中や羽鮒(両方とも現在の富士宮市、羽鮒は旧芝川)の名主の権利を与えている。
天文6年3月(義元から信忠へ)※左

  • 三国同盟破棄後の富士氏
今川義元が「桶狭間の戦い」で死すると、今川氏真が当主となった。しかし氏真はその状況を好転することができず、それを見た武田氏は三国同盟を破棄し、駿河侵攻を開始する。信忠は今川義元亡き後も今川氏に忠義を尽くし、やがて大宮城城主となり、永禄期には戦を繰り返した。永禄12年2月1日には穴山信君と葛山氏元の連合軍が大宮城を攻めるも、かえって撃退するなど善戦している。

大宮は駿甲国境の要衝であり、重視される場所であった。そしてこれまで大宮城は武田氏の攻撃を良く防いでいた。また氏康・氏政がこのとき繰り返し書状を送っているのが本当によく分かる。
北条氏康より(右)、しかし「富士殿」は信忠か信通か不明

北条氏政から信忠へ

しかし戦況は余談を許すところではなく、永録12年6月の武田信玄の本隊の襲来により、ついに降伏することとなる。富士信忠は武田氏家臣の攻撃を防いでいたために、武田信玄の本陣が出陣するまでの活躍をしていたのである。


後に富士氏は武田氏に属することとなり、武田氏側として元亀3年(1572年)4月に信忠は甲府に顔を出している。

元亀3年4月2日 ※右

その後は大宮司職を嫡男信通に譲り、天正11年8月8日に死没したという。

  • 参考文献
「静岡県史 通史編 中世」
「駿河・遠江・伊豆~日本を変えたしずおかの合戦」
「浅間神社の歴史 宮地直一」
「浅間文書纂」

2011年8月21日日曜日

富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論

富士山を巡るの争いは「環富士山地域」で行われていたが、その歴史の中でも大論争だったのは「大宮」と「須走」間の争いだと言える。「富士山を巡る争い」と言ったら普通はこれを指すくらいの有名な論争である。それは「元禄の争論」と「安永の争論」である。

まずその前に用語について確認する必要性があります。


  • 富士本宮…現在の浅間大社
  • 大宮…現在の静岡県富士宮市大宮
  • 村山…現在の静岡県富士宮市村山
  • 須走…現在の静岡県駿東郡小山町
  • 吉田…現在の山梨県富士吉田市
  • 内院散銭…内院は火口を意味する。その火口に道者がお金を投げ入れることを言う。山頂が神聖な場所とされたので、儀式的な意味合いがあったと思われる
  • 薬師堂…現在の山頂久須志神社
  • 1番拾い…内院散銭のお金をまずはじめに得る権利のこと
  • 2番拾い…1番拾いにて残ったお金を得る権利


富士山頂の様子(『富士山道しるべ』より)

【元禄の争論】

元禄16年(1703年)に散銭や山小屋の経営などを巡り須走村が富士本宮を訴えた論争が「元禄の論争」である。

  • 須走の訴え
  1. 「富士本宮が新たに吉田村(甲斐国)の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたが、そのような権利はない」
  2. 「薬師富嶽の薬師堂を富士本宮が造営したが、本尊の薬師仏の入仏は須走が入仏拝していたにも関わらず、富士本宮が入仏を進めると裏書したのは既得権を侵害している」
  3. 「内院の散銭取得において、従来の慣例を無視し、富士本宮が2番拾いの散銭まで取得したのはおかしい」というもの。

  • 争論の結果
  1. 「小屋掛けは他の者にはさせないこと」
  2. 「薬師堂入仏は須走が勤めることとする」
  3. 「内院散銭の1番拾いの分を大宮と須走で6:4とする。また2番拾いはこれまでと同様に須走のものとする」

と決まった。

つまり須走の全面的な勝訴と言える。特に3はかなり大きな権利を得たことを意味する。というのは、大宮は1番拾いの権利を得ていたが須走は2番拾いの権利に留まっていた。つまりほぼ大宮の独占だったのである。しかしこの争論により1番拾いの権利を一部得たばかりか、2番拾いの権利はそのまま継続されたので大きな躍進だったわけである

【安永の争論】

安永元年(1772年)に須走村は富士山の8合目以上は同村の支配にあるとして徳川幕府に訴えた。またこのとき「支配境界の論争」が大宮と吉田間でもあった。このことにより富士本宮の当時の富士大宮司である「富士民済」も幕府に訴える動きに出たため、三奉行が関わる争論となった。そして安永8年(1779年)まで裁判は持ち越されることとなった。

『浅間神社の歴史 宮地直一著』に
安永元年7月駿東郡須走村、甲斐都留郡吉田村を相手として富士山頂の地境を論じ、同八年終に三奉行より富士山八合目以上は大宮の支配たるべき旨裁許を蒙った
とある。このように三奉行により8合目以上は富士本宮の管理地であることが決定されました。

このように1779年に富士山の8合目以上は浅間大社の支配となることとなった(今般衆議之上定趣者富士山八合目より上者大宮持たるべし)。つまり大宮の全面的な勝訴と言える。これが現在に至っている。しかし内院散銭については1880年の内務省の通達により廃止されることとなった。

大宮と吉田間の「支配境界の論争」を「8合目を巡る争い」と勘違いしてしまうケースがあるように見受けられます。歴史的には、駿河と甲斐間で実質的に山頂部を争ったということはありませんでした。逆に駿河の地域間ではありました。そしてやはり「富士山を巡る争い」という意味では「大宮と須走」を指すのが良識と言えます。

  • 参考文献
  1. 宮地直一,『浅間神社の歴史』,名著出版
  2. 『小山町史』第7巻近世通史編,P469-488
  3. 小山真人,『富士を知る』,集英社,P94-100
  4. 『富士山推薦書原案』
など。

2011年8月19日金曜日

駿河国富士郡大宮の由来

富士宮市の由来については「富士宮市という市名の由来」にて取り上げましたが、今回はその中心地であった「大宮町」の「大宮」の由来について取り上げようと思います。

「大宮」の初見などは確認していませんが、例えば『富木殿御書』(文永11年(1274))の記録に

十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまかへし十五日ををみや十六日なんぶ…

とある。日蓮が身延入りした日程を記しているが、「大宮-南部-身延」という流れから、ここでいう「ををみや」が駿河国大宮を指しているのは間違いないだろう。「大宮」という言葉を聞いたときに、なんとなく「大きい宮?」となりそうだが、実はそのような解釈で正しい。

まず「宮」というのは「神社」を表わしています。古い書などをみると「きふねの宮」や「宇佐の宮」などを度々目にしますが、つまりは貴船神社であり、宇佐神社を示しているのです。現在の浅間大社の社号は昔は「富士の宮」(平安時代に既にみられる)とも呼ばれていました。それが現在の「富士宮市」の由来という話でしたね。

そしてここで本から一部抜粋したいと思います。「日本史小百科 神社」によると
その境内(浅間大社)が広大であったからその地を大宮と呼ぶようになった
とあります。これが正しいとすると、大宮はやはり神社から由来する地名であると言えるでしょう。意味的には「大きい神社がある=大宮」という感じですね。「大きい」というのは境内という意味もありますが「位」という意味も考慮する必要があるかなと個人的には思います。
官幣大社昇格祭文
『日本三代実録』に「富士郡の正三位浅間大神の大山」(噴火の報告の中で)とあります。貞観1年(859年)に正三位の位階を与えられているそれ(正三位の神社ということ)が「大きい」という由来かもしれません。どちらにせよ神社から来ているということには変わりはないと思います。そして現在の市名も神社から由来するので、はやり富士宮市というところはどうあっても「浅間大社一筋」なのでしょうね。

2011年8月18日木曜日

富士山の語源

「富士山」の語源については諸説ある。ここで1つ注意したいのは、富士山の語源といったときに2つの考え方が出てくることである。その2つとは…

  1. 「フジ」という語の語源
  2. 「富士山」という名に至る由来

という考え方である。「フジ」は「不尽(和歌など)」「不二(和歌など)」「福慈(『常陸国風土記』)」「富岻(『日本霊異記』)」などあまりにも多くがあるが、それらのそもそもの「フジ」の語源についての検討が1である。2はそれら多くの「フジ」の中で「富士」で留まるに至る部分の検討を指す(「不尽や不二はそれ以後もたびたび用いられている」)。

まず、割とはっきりしている2から話していきたいと思う。

駿河国の郡の名として「富士郡」というものがあります。この「富士郡」という名は「富士山」からきていると思われがちですが、むしろ一般的(学術的)には「富士山が富士郡から由来する」と考えられています

というのは、平安時代に記された『富士山記』には駿河国富士郡を指してはっきりと「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とあるからです。富士山という名は富士郡の「富士」からとったということであり、これに影響してと思われるが、それより後期の資料で同じような記述がいくつもみられる。そして他に由来を示すものがない以上、「富士山の由来は駿河国富士郡である」といっても特に間違いではありません。例えば現代においては普通に「富士山」と書くと思いますが、その元をずうっとずうっと辿ると駿河国富士郡ではないかということなのです。「富士山」という表記の初見は平安時代初期の『続日本紀』とされています。『富士山記』も平安時代であり、都良香(『富士山記』の作者)の文人としての人物像などを含めても一番信用に値するということなのだと思う。

個人的には、そもそも地域の名称と山の名称のどちらが先に名付けられるかといったら地域の名称だと思うし、古来まで遡ると支配の区分として「富士郡」なるものが生じ、そこから由来するのだと思う(古すぎてよくわからないが)。

次に1ですが、まず説にどのようなものがあるかです。尚、この部分については「富士-信仰・文学・絵画」がとても詳しく、分かりやすいです。


史料内容
『竹取物語』かぐや姫の残した不死の霊薬を山頂で燃やしたことによる「不死」の山から
『海道記』上と同系統
謡曲『富士山』上と同系統
『運歩色葉集』男の子を得るための「呪文」としての言葉による
『士峯録』「民に豊かな恵みを与える」から富士とする/「不二」という「他にない美しい山」という意
『古史伝』富久士(布久士)→富士となったとし、久士は「天にそびえる姿が霊妙である」という意味とする
『松屋棟梁集』火口から火や煙を吹き上げるから富士
『浅間大神御伝記』(一説目)富士は「班白(ふしろ)」という意味で、四時雪の班白を指す
『浅間大神御伝記』(二説目)富士は「覆」の意味で、器を伏せたような形という意味
『アイヌ英和辞典及びアイヌ語文典』フチ、フジ→火、カムイフチ→火の女神
『百草露』フジは「ホデ(火出)」の転化であるとする
『仙覚抄』「けふりしげし」の略
『日本地名学』「フジ」は「長いスロープの美しい形態」を意味する語

どれが正しいのかは分からないし、これらの中に正解が無いかもしれない。それほど歴史の紐を解くのは難解だと思う。これからもどれかに特定されることはないと思われる。

富士山の古い時代の記録として期待できそうなものに『駿河国風土記』が挙げられそうだが、基本記録として残っていない。だから、富士山の最も古い記録として挙げられるものに『常陸国風土記』(よく伝わっている)がでてくるのである。


『常陸国風土記』の記述

この中で常陸国の山と富士山を比較する記述として「福慈岳」(富士山)が出てくるのである

  • 「富士」を冠する語
今でこそ企業名や「〜市」やらと「富士」を冠するものは多いが、これが昔の時代だったらどの程度であっただろうか。15世紀以前で考えた場合、富士を称するものや冠するものは多分それほど多くはないのではなかろうか。代表的なものは浅間神社の社号(例「富士浅間宮」)や「富士大宮司」(神職名)などだろう。

足利尊氏から富士浅間宮への書状(※1335年)

これらは、ある意味伝統的な「富士」と言えるのではないかと思う。他には巻狩りが行われた地である「富士野」なども思いつく。しかし土地の名称ではない固有名詞に限局すれば、かなり限られているように思う。富士宮市の市名の由来である、浅間大社を指す語である「富士ノ宮」という言葉もかなり昔からある呼称である。「富士の語源」という考えだと難しいので、「富士」を冠するものがいつの時代から見える(呼ばれる)ものなのか、という視点でも面白いかも知れない。


  • 富士郡における「富士」の用例


富士郡は必然的に「富士○○」という用例が多い地である。史料的にみると、多くは富士上方に集約されているように思える。以下、用例を見てみる。

<富士上方の場合>


大宮城の別名として「富士城」という名称を用いている。当時富士郡には城といえるものがいつくか存在していた(『佐野安朗,『古城 第51号』P87-92「大宮城の戦いと十四ノ城砦群」,2006年』が詳しい)。しかしその中でも大宮城に対してこの呼称を用いているという事実は大きい。つまり「(駿河国の)富士の城」といったとき、それは普通「大宮の城」を指していたのである。

<富士下方の場合>

  • 参考文献
  1. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995

2011年8月17日水曜日

富士の巻狩り

富士の巻狩りとは
建久4年(1193年)5月に時の征夷大将軍「源頼朝」によって行われた壮大な巻き狩りを指す。富士山麓で行われた大規模な巻狩りであり、このときに「曽我兄弟の仇討ち」が行われたことでも有名である。その規模から征夷大将軍としての権威を示すための目的や、予行演習的な要素があったと考えられている。

巻狩りの行動範囲自体は広範囲に及ぶものの、御旅館の所在地の他、仇討ちなどがあった時期での巻狩りの場所は上井出辺りと推測され、メインは富士宮市周辺であると考えられる。

非常に有名な出来事であり、『吾妻鏡』を筆頭として以後の歴史書などで多くで言及されている。

『吾妻鏡』より。
  • 5月8日癸酉将軍家富士野藍澤の夏狩りを覧玉わんが為、駿河の国に赴かしめ給う。
頼朝一行が夏狩りを行うために富士野の藍澤へ向かう部分の記述である。この「富士野」のエリアの詳細は不明で、富士山南麓とだけいわれている。後に村山と大宮で入会権で争っている地である。

  • その外射手たる輩群参し、勝計うべからずと。
数が数えられないほど多くの群をなしているということ。巻狩りの規模の大きさが伺える記述である。

  • 藍澤の御狩り、事終わって富士野の御旅館に入御す。
この「御旅館」 ですが、この辺りは富士宮市だと言われている。富士宮市のHPでは井出家の元の屋敷の場所が富士野の御旅館の跡だと述べられている。

また。『壬申日記』では
上野より富士のすそ野を北ゆけば上井出まで一里あり。是、頼朝卿の富士の狩し給ひし時、かりの屋形ありし所、今もそのあとあり。
と、御旅館と思われる記述が見られれ、江戸時代の時点でも御旅館跡が確認できたと推測できる。

  • 十六日辛巳。富士野御狩之間。将軍家督若君始令射鹿給。
息子である頼家が鹿を始めての巻狩りで射止めたことを指している。頼朝はこれを大層喜び、政子に対してこの報告を行ったところ、「武士の子だからそんなの当たり前です(というようなニュアンスで)」と返されたという。


この富士の巻狩りに関する逸話はかなり多い。特に北部はそれに関する地名なども多い他、例えば浅間大社の社伝では、流鏑馬の起源は富士の巻狩りの際に頼朝が奉納したと伝わる。

2011年8月11日木曜日

武田信玄と富士山


  • 信玄による浅間神社の庇護
甲斐国といえば諏訪信仰が良く知られており、武の神である諏訪明神は武田氏により厚く庇護されていた。一方浅間神社に目を向けてみると、武田氏の繁栄に伴い浅間神社に対してもしだいに庇護の姿勢が見られるようになっている。これは、小山田氏領において武田氏が優位に立つための施策でもあった。つまり浅間神社を庇護することで、武田氏が台頭することを目論んだのである。



  • 信玄は富士登山を行なったか 


例えば『妙法寺記』を読んでみると父信虎の登山の記録はありますが、信玄自身の登山の記録はありません。父信虎の登山であるが、このときは大永2年(1522年)という時期である。

この2年前は永正18年(1520年)であるが、この時の小山田信有の岩殿山円通寺の修復に対する棟礼に「当郡守護」とあり、小山田氏は郡内における支配者と称している。つまりこの時代、武田氏は郡内への影響力は限りなく低かったと思われる。そういう中での武田氏当主の登山なので、当然緊張感はあったはずである。

ちなみに、武田信玄の鈎釜に「富士釜」なるものがあるそうです。

  • 参考文献
  1. 勝山村史編さん委員会,『勝山記』,1992年

2011年8月6日土曜日

壬申紀行にみる富士山

『壬申紀行』は江戸時代の儒学者である貝原益軒による紀行文であるが、その中に富士山に関する項目がある。

ここから一部を抜き出す。

  • 駿河国中の人は一日ものいみしてのぼる。他国の人は百日潔斎す。近江の人はものいみせずしてのぼる
富士山に登る際は儀式があり、駿河国の人は当日行い、他国の人はもう少し長く行っていたようである。しかし近江国(他国に該当する)からの道者はそれが簡単に済ましてもよかったということ。近江国は富士山に関する伝説もあり、また修験道で接点があったために、このような特別な扱いがあったのではないかと個人的には思います。

  • 別当三坊あり。是より上は山なり。村山より中宮へ三里。中宮に八幡宮あり。
村山三坊や中宮八幡宮についてです。

  • およそ高嶺にのぼる人、吉原より行には丑の時に宿りを出て其あけの日ひねもすゆけば其日の暮つかたには、すなぶるひまでいたる。そこにて飯などくひ、やすみて、夜に入、たいまつをともしてのぼる。
富士登山を行うパターンとして、午前2時頃に吉原宿を出てたいまつに火を灯し、夜登ったようである。これら同様の記述は多くの書物でみられます。
『富士山表口絵図』
  • 八葉のめぐりは駿河に属するゆへ、大宮の社人社僧などは、八葉の上にて修するわざありと云。甲斐相模の方にも此山のふもとはかかれり。されど此山は駿河の富士郡にある故、富士山と名づけ、駿河の富士なれば甲斐相模よりは八葉の上、其国のかたむかへる所にも社人などのつとめなしと云。
八葉、つまり富士山頂は駿河に属しているため、大宮の浅間大社の社人などはここを儀式などに利用していた。富士山のふもとは甲斐国や相模国にもかかっている。しかし富士山は駿河国富士郡に由来があって富士山と名付けられた他、8合目より上にいくには駿河の社人などの許可が必要であった。(その後に富士郡から由来するという部分は駿河国の伝えによるものとと述べられている。)

  • されど甲州の方よりみれば、山の形いよいようるはし。絵にかける図あり。甲斐国よりみたる形によくあへりと云。山は駿河に属して、ふもとは駿河、甲斐、相模三州にかかれり。
(上の部分に対し…)しかし甲斐国からみた絵画も多くある。山は駿河国に属しているがふもとは三国に跨っている。この「三国国境説」は、後に取り上げたいと思います。

富士山の登山における道者の時間の使い方、また当時の富士山の土地の認識などが書かれていて、参考になる部分は多いと思う。

  • 参考文献
板坂耀子,『近世紀行集成』(叢書江戸文庫17) ,P39-42,1991年

壬申紀行にみる大宮

『壬申紀行』は江戸時代の儒学者である貝原益軒による紀行文である。
貝原益軒
その中には富士山に関する記述と大宮に関する記述もある。「大宮へ」とある部分に、大宮とその他の芝川などの地域についての記述もあるので、併せて紹介します。

  • 柴川は名所なり。(中略)此川に富士苔と云物多し。

今の芝川のりではないかと思います。苔の名産地であったと推測できます。

  • 西山に本門寺とて大なる寺あり。北山の重巣本門寺、西山本門寺、上野の妙蓮寺、大石寺、大宮の久遠寺あり。其中につゐて、西山本門寺最大なり。僧舎16坊あり。西山より上野の妙蓮寺に一里半あり。寺、大ならず。妙蓮寺より大石寺に五丁あり。是又、上野村にあり。大石寺も大なる寺なり。寺領60石あり。…

富士五山の各寺についての記述。

  • 是、頼朝卿の富士の狩し給ひし時、かりの屋形ありし所、今もそのあとあり。
富士の巻狩の御旅館などについての記述。

  • 大宮に至る。(中略)いちくらにはくさぐさの食品器材等うりもの有、にぎはへり。

大宮のにぎわいが感じ取れる文である。

  • 富士浅間の大社あり。南にむかへり、拝殿あり。

浅間大社についての記述です。

  • 浅間の祝部は、大宮司、公文、案主、是三家を長とする。其外、神前にかはるがはるとの居する番の社人18家あり。又、社僧には別当あり。其外僧家五坊あり。社領千石、其内大宮司三百石、別当百石、其外各配分せり。

浅間大社の大宮司、公文・案主とそれらの所領についての記述など。

2011年8月1日月曜日

富士山の河口御師

今は「河口」(現在の山梨県富士河口湖町)と表記されますが、昔は「川口」でした

北口本宮御師宿坊図(川口からの登山道を示す)
  • 川口御師
御師とは「道者に対して宿や食事を始め、一切の世話をする人であり職」である。川口からの登山ルートは「船津(ふなつ)-小御嶽(こみたけ)」である。これら道者を相手としたのが「川口御師」である。御坂峠より北からの道者が多かったようである。『甲斐国志』に「北麓ノ村落吉田・川口二村二師職ノ者数百戸アリテ…」とあり、川口御師の存在が確認できる。1つしっかり確認しておかなければならないのは、「富士山周辺における御師は富士講の影響によりできた形態ではない」ということです。富士講以前に御師は存在しています

  • 本栖御師と川口御師と吉田御師
1570年代までは本栖御師が存在したが、かなり早期に川口に譲っているようである。川口御師は16世紀ではまだ吉田御師より優勢であり(140坊存在したともいう)、繁栄していた。しかし富士講の隆盛により吉田御師が繁栄しはじめ、川口は大きく衰退していく。「大宮・村山口登山道 村山古道とは」にて「大宮と村山は特に率先して協調しあう関係ではなかった」と述べていますが、川口と吉田もそのような関係であったと推測されます。例えば1810年には川口と吉田とで登山ルートを巡る争いをおこしている。登山ルートは「山役銭」に直接影響するからである。

  • 河口湖口とは
先に結論をいうと「河口湖口」なるものは本当は存在しない。非常に混同しやすいので、近年「吉田口」で統一されることとなった。書物でも「河口湖口」なる表記はみられない。「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」には以下のようにある。

旧来の船津口登山道が整備され、バス路線が開設された一九五四年頃には、御中道と合流する小御岳火山の山頂(小御嶽神社が鎮座)は、「船津口五合目」(のち河口湖口五合目)と呼称されるようになった(『富士山麓史』)

これは観光のためにガイドブックなどの紹介などで用いられた観光用語である。古来は「吉田」や「北口」、または「裏」などと呼ばれてきた。
富士山頂上御拝所御霊鏡図(川口からの登山道を示す)
  • 参考文献 
  1. 富士吉田市民俗歴史博物館,『博物館だよりMARUBI №30』,2008年 
  2. 堀内眞,「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」『甲斐No.113』,2007年