2011年11月21日月曜日

富士山と内院散銭

内院散銭は、富士山の噴火口である「内院」にお金を投げ入れる行為をいいます。道者が行う風習でありました。それを環富士山地域の有力者が得る権利を持っていました

実は「内院散銭を制する(得る権利を保持する)者は、富士山を制する」ようなものなのです。これは誇張した表現でもなく、まさにそうなのです。先ほど「環富士山地域の有力者が得る権利」といいましたが、だれかが山頂に行って自由に得られるわけではありません。しっかりと大名などに権利が与えられることで、得ることができるのです。

ここらへんの戦国大名はどのようなものがいたでしょうか?今川氏や武田氏や北条氏などですよね。そして時代は下り、戦後時代を終わらせた徳川家康です。戦国時代初期は今川氏が最も勢力があった時代ですが、例えば富士山の村山修験、すなわちそれらの主である村山三坊は今川氏の庇護を得ることで栄華を誇っていました。

この内院散銭の権利も時の権力者が与えているため、それはその権力者に庇護されるということであり、大きな権威を保持することになります。そして内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます。ですから、内院散銭の権利を与えられるということは非常に大きなことなのです。そもそも内院散銭自体が莫大なお金になりますからね。大名がお金を保証するようなものなのです。

よく「登山者が一番多かったので、この地域が一番強かった」というような表現をする例がみられます。たしかにそのように言える部分はあります。しかし「富士山における権利」と「登山者の多さ」は全く直結していません。たしかに道者が多い分、宿などは財政的に恵まれる面がありますが、それと「富士山における権利」は全く別物なのです。なぜなら権威というものは「権力者に与えられる物」であるからです。

内院散銭自体は室町時代に風習があったことが分かっています。今川氏輝の富士山興法寺村山三坊辻之坊への判物に見られます。判物には「内院諸末社参銭等之事」とあります。



これについては「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に」にて以下のように説明されている。

「中宮・御室・内院・諸末社参銭之事」は、村山以降富士山頂までの道程に存在した中宮八幡堂、御室大日堂、内院(山頂噴火口)や諸末社で、道者が投下する参銭を徴収する権限を辻坊が握っていたものと思われ、これは「山中参銭所」とも記されている。

内院は各登山道の頂点であり、各参銭所の中でも特に多くの参銭を有していたと思われる。それを取得するという権利は軽視できない。

「富士講の信者が内院散銭を行っていた」と書くものが多いですが、間違えてはいませんが、非常に語弊のある言い方であると思います。「富士講信者も行っていたことから、この風習が続いていた」というべきです。大体、富士講信者以外も行っていました。なぜか富士講と絡ませて話すと、なんでも「富士講特有の現象」のように説明してしまうんですね。私もその先入観を取り払う作業に苦労しました。

しかしどうでしょう。栄華を誇っていた今川氏ですが、当主である今川義元が桶狭間で没し、次の当主の今川氏真もその状況を好転できずに、駿河は武田氏の手に堕ちてしまいました。戦国大名としての名門今川氏は滅びてしまったわけです。つまり今川氏に庇護されていた村山は後ろ盾を失ったわけです。そして武田氏は「須走」に内院散銭を与えています。1577年の事です。「富士山内院之参銭、六月中に一日之分所務」とあります。



内院散銭を制する者は、富士山を制する」…、須走はどんどん勢力を拡大していきました(決して内院散銭だけによるものではないが)。須走という地域は、実は登山道が開かれたのは比較的遅いと言われています。しかしながら、勢力の拡大は目を見張るものがあります。

しかしどうでしょう。武田氏も1582年に滅びてしまいます。武田氏当主の武田勝頼は「長篠の戦い」にて大敗し、逃走する中でなんとか好機を探ろうとします。そして家臣の小山田氏を頼みとすることとし(小山田信茂の強い勧めによる)、小山田氏の領地を目指して逃走を続けます。しかし、その中でなんとその小山田氏に裏切られ、ついに天目山にて死することとなります(自害とも、野党に襲われたともいう)。そしてそれと同時に支配したのは「徳川家康」ですね。つまり「内院散銭」を与えるというようなことができるのも、このときは家康であったのです。徳川家康は元は今川氏に属し、名を「松平元康」といいました。この名前の「元」は「義元」の元からもらったものなのです。しかし今川義元が討たれると独立に動きます。そして名を「家康」とします。改名したのは、決別を明確に示したことを意味します。

そして内院散銭だけでみれば、家康は1609年に浅間大社に内院散銭の取得権利を与えています。

ここで疑問が出てきます。「今川氏や武田氏は滅びているけど、権利はどうなっていたのか」ということです。ここは非常に難しい部分です。遠藤秀男氏は『富士山の謎と奇談』の中で「与えられた権利は後世にも続き、散銭を得ていた(大宮と須走で分けていた)」というように説明しています(本が手元にないためニュアンスだけ、いつかしっかり書きます)。
つまり、(村山)・大宮・須走は「それぞれ内院散銭を得ることができる立場」という複雑な状況であったわけです。しかし、やはり争いは起こります。それが「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」にあるようなことなのです。

「国指定文化財データベース」より引用(国指定文化財等データベース>富士山>富士山(史跡)>詳細解説で全文が見れます)
噴火口は内院(ないいん)と呼ばれ、散銭が行われ、火口壁のいくつかのピークは曼荼羅における仏の世界に擬せられ、「お鉢めぐり」と呼ばれる巡拝が行われた。山頂部の八合目以上については、安永8年(1779)、幕府の裁定により富士山本宮浅間大社の支配権が認められた。
これは国指定文化財データベースによるものなのです。言ってみれば、学術的視点による教科書のような、見本となる歴史解説なのですが、やはり内院散銭は重要な位置づけにあります。そして安永8年の幕府の裁定(安永の争論の決着)は富士山史において「大き過ぎる」と言っていいほどの出来事でしょう。

安永8年(1779)の幕府の裁定の一部
この安永8年の幕府の裁定により、富士山における権利や支配などは明確なものになりました。だれがどのような権利をもつのかがはっきりとしたのです。先ほど「内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます…」と書きましたが、例えば吉田などが山頂にて何か独自で行う場合などは、大宮の許可が必要でした。この関係は安永8年の幕府の裁定以前もそうでしたが、裁定後はより明確でした。例えば大宮が吉田に新たに許可を与えたところ、須走が反論している例などもあり、それが元禄の争論の争点の1つだったりします。

内院散銭という側面からみると、戦国時代をよく感じとれますね。そして富士山における権利構造というものがよく分かります。

  • 参考文献 
  1. 『小山町史第1巻 原始古代中世資料編』P514 
  2. 『浅間文書纂』P120
  3. 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003

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