2012年1月10日火曜日

富士金山

「富士金山」は毛無山の鉱脈に属する金山の1つである。「富士金山」は古文書等で呼称される用語であり、今「麓金山」というのは「麓」という地名から読んでいるに過ぎない。

毛無山は静岡県と山梨県に跨る山であるが、駿河側の金山を「富士金山」と言い、甲斐国側の金山を「中山金山」と言います。そして互いに隣接する「中山金山・内山金山・茅小屋金山」の3つをまとめて「湯之奥金山」といいます。湯之奥金山と毛無山を挟んで反対側にあるのが富士金山というわけです。


富士金山は戦国時代から採掘が始まったとされ、支配者は「今川氏→武田氏→(後北条氏)→徳川氏」と移り変わっています。今川氏は「桶狭間の戦い」にて当主が死することで衰退し、それを見た武田氏が同盟を破棄し駿河に攻めこむことで戦国大名としての今川氏は滅びました。しかしその武田氏はやはり織田氏の手によって滅亡することとなったため、後北条氏が狙ってくることとなります。しかし程なくして徳川家康が駿河を支配したため、後北条氏ではなく家康が手にするのです。

  • 武田氏と金山
武田氏は金山の採掘によって得た収入を軍事力に当てていたとよく説明されます。しかし明確に支配していたかはよく分かっておりません。ですから富士金山についてもここでは「武田氏が富士金山を支配していたとは必ずしも言えないのかもしれない」とだけ記載しておきます。

「武田氏の金山支配をめぐって」には、以下のようにある。

武田氏の金山支配については既に多くの言及がなされているのにもかかわらず、武田氏の出した金山に関係する古文書の残存量が少ないこともあって、古文書を通しての実証的研究から、武田氏と金山に関係する確実な定説というべきものができあがっているわけではない

つまり、「金山の採掘によって得た収入を軍事力に当てていた」などといえる状況では実はないのである。また文書類の分析により、甲斐国領主「穴山氏」が管理していて武田氏は関わっていなかったと推察される金山もある。

富士金山についても言及されている。

これまで武田氏の金山と呼ばれてきたもののなかには、中山金山などのほかにも、そうでないものが含まれている可能性が大きい。また、駿河の富士金山についても穴山氏が手を延ばしていた可能性が高い

富士金山の支配は、間違いなく穴山氏が関与していました。これらについては「富士金山を取り巻く武田氏と後北条氏と富士大宮司」でも取り上げている。武田氏の大宮攻略の際、大宮城(富士城)の開城の手続きをしたのも穴山氏である。今川義元存命中の穴山氏は今川氏と関係が深かったが、その当時浅間大社に脇差を奉納するなど心理的な距離も近かった。何より、江尻領を保持していた穴山氏が富士金山を管理していたというのは、筋が通っている。これは、今後の研究次第である。しかし今川氏が富士金山を支配していた記録は存在するので、開削を始めたのが武田氏(及び甲斐勢)ということはまずあり得ないと言うことはできる

富士金山については「埋蔵金伝説もある!?麓(ふもと)の金山 2008年2月号(アウターネットワーク)」さんが分かりやすいかもしれません。
  • 参考文献 
  1. 笹本正治,「武田氏の金山支配をめぐって」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年
  2. 『静岡県史料 第2輯』P455-456, 静岡県,1933年 
  3. 『山川 詳説日本史図録』 
  4. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P418,名著出版(1974年版)

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