2012年9月24日月曜日

静岡県の富士山の神仏像

信仰という場合、「奉納」という形で篤い信仰心を表明する方法がありました。富士山の場合富士山中への神仏像の奉納や、浅間神社に対する奉納が繰り返されてきました。特に山頂というのは聖視されていたため、山頂への奉納は重要視されていたと思います。しかしそれら奉納物も廃仏毀釈により多くが取り壊されてしまいました。しかしながら少なからず下山仏も存在しています。以下ではそれら下山仏や浅間神社蔵の神仏像を取り上げています。像からでも、多くの歴史的事実は読み取れます。

  • 菩薩立像:享保4年(1719)


現在でいうところの久須志神社に存在していた仏像がこれである。現在は高砂酒造に保管されている。

老舗の「富士高砂酒造」
江戸神田の鋳物師が製作し、同所の人々が連名で山頂に奉納したものである。廃仏毀釈の動きの中、破壊されないよう運んだ下山仏である。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると以下のようにある。

岳薬師下山仏は今もなお、富士宮市内の酒屋に保管されている。村の共同作業によって仏は下ろされ、そのご苦労振る舞いに酒を飲んだが、その費用が捻出できず、飲代のかたに仏を酒屋に取られたという逸話が残っている

真偽は不明だが、村山の人たちの廃仏毀釈に抵抗しようとする姿勢は感じ取れる。


  • 大日如来像坐像:室町時代


大頂寺(富士宮市)蔵。頭部と両手は銅、体部は鉄の大日如来像である。頂上の初穂打場に存在していたとされる。廃仏毀釈の際に大頂寺に下ろされた下山仏である。


  • 大日如来坐像:正嘉3年(1259)


富士山における神仏像では古い部類のものであり(最古級)、非常に重要な大日如来像である。(近年他に木像が発見されたが、大日如来像としては変わらず最古級である)。大鏡坊(村山三坊)に伝来し、その後浅間神社の本殿に祀られたという。

銘は「敬白、奉造立倶金頭大日如来壱躰、正嘉三年未午正月廿八日、願心聖人・覚尊・□日・仏師□□」とある。またこの「覚尊」という人物であるが、『撰集抄』(鎌倉時代成立)に富士山の奥で庵を結んで生活していた僧として同じく「覚尊」という人物が挙げられており、同一人物ではないかという推察がなされている。

  • 大日如来像:文明10年(1478年)

村山浅間神社蔵。村山と大宮、双方による共同の造立・供用である。大宮は「富士氏」の富士忠時と富士親時親子による奉納である。村山は各坊からなる。銘などから分かる部分が多く、非常に重要な像である。木像からでも、15世紀の状況がよく分かる。「富士信仰の成立と村山修験」に銘がすべて掲載されている。


遠藤秀男氏は以下のように述べている。

文明10年に存在した坊は五坊で、後の元亀4年に修理を加えた時、左右の脇に四坊の名が加えられたようである。しかもそれらの盛衰を語る上うえで興味深いのは、村山三坊のうち辻之坊だけが後にでてきているということだ(続く)。

このように、銘から「三坊(というより当時の坊)のこと」「富士氏のこと」「富士山興法寺のこと」などが探求できる。例えば「大宮司前能登守忠時」とあるため、この時能登守ではなかったと考えることができる。「富士山興法寺」とあることから、このとき興法寺が存在していたことも証明できる。「大鏡坊成久」は富士忠時の兄と考えられている。また村山と大宮の関係を伺わせる重要なものである。

  • 参考文献
  1. 富士吉田市歴史民俗博物館,『図録 富士の神仏-吉田口登山道の彫像-』,2008年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978

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