2012年11月21日水曜日

享徳の乱と富士氏

文書1
まず最初に文書を掲載したい(文書1)。

享徳四年(1455)閏四月十五日、上杉持朝(扇谷上杉家当主)は「富士右馬助」宛てに、所々の戦功を賞する内容の文書を発給している。そして恩賞については上杉房顕(山内上杉家当主)と相談するように、という内容である。「享徳の乱」の際富士氏は、幕府より上杉氏への支援を命じられており、こういう文書が残されている。

「右馬助」は官途名であり、そういうものは一族で継承されることも多い。寛正3年(1462年)11月2日の「後花園天皇口宣案」の受給者は「右馬助和邇部忠時」、つまり富士忠時である。そして今回の文書は1455年とさほど時期を隔てていないため、ここでいう「富士右馬助」も富士忠時と考えることができる。

次に「醍醐寺文書」を掲載する。

これは上杉持朝との約束が反故にされているため、富士忠時が西南院に宛て、細川勝元(室町幕府管領)を通じ、持朝だけでなく上杉房顕への下知も依頼した文書である。享徳四年(1455)の文書とつなげて考えることができるため、忠時が恩賞を受けていないことの不満から発給されたと考えられる。

富士忠時の時代、富士家は武力を保持していた。そのため幕府からの依頼が来ることも多く、その結果古河公方勢力と戦をしていたことが分かる。そして数々の戦功を上げていたということも分かる。それらから、反古河公方勢力の中心である扇谷上杉家や山内上杉家などと関係が深かったのである。

しかし恩賞の約束が果たされておらず、当時の室町幕府の権力者管領「細川勝元」(後、応仁の乱を引き起こす人物)を通すことで、恩賞が支払われることを望んだのであろう。享徳の乱の時の富士氏は、こういう情勢であった。


「醍醐寺文書」

  • 参考文献
  1. 黒田基樹,『扇谷上杉氏と太田道灌』P120-123,岩田書院,2004年
  2. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年

2012年11月16日金曜日

富士家のお家騒動と足利将軍

まず、以下の文書を紹介したい。

「足利義政御内書(写)」、『戦国遺文今川氏編』二十八号文書
これは文正元年(1466年)の「足利義政御内書(写)」であり、「足利正知」宛である。内容は、富士忠時が右馬助から能登守への昇官することを承諾した上で、大宮司職を又次郎親時(忠時の子)に譲るという内容である。つまり、大宮司職が富士忠時から親時に移行することを意味する内容である。

富士忠時」にありますように、富士忠時は富士氏の大宮司職であり、当初官途名は「右馬助」であった。「静岡県の富士山の神仏像」に村山浅間神社蔵の大日如来像を掲載しているが、その仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とある。富士忠時が右馬助から能登守に昇官していることの裏付けである。

今回はこの「大宮司職を又次郎親時に譲る」という部分に関連する事柄について着目したい。系図上大宮司職は、富士忠時の次代が富士親時となっている。


つまり、「足利義政御内書」と辻褄があう。この富士忠時であるが、父「兵部少輔入道祐本」と人事を巡り確執があったとされている。つまり家督相続を巡るお家騒動である。このお家騒動があったことは、様々な資料で確認できる。『臥雲日件録』には以下のようにある。

寛政六年六月十八日、本寺長老來、茶話之次、問駿州国人富士父子闘争之事

とある。寛正六年(1465年)の記録であるが、つまりこの富士家のお家騒動の事は世に知れ渡っていたのである。「富士父子」は富士忠時(子)と兵部少輔入道祐本(父)のことである。また『親元日記』にもお家騒動の事が記されている。『親元日記』の寛政6年(1465年)7月の記録には以下のようにある。

就富士兵部大輔入道親子確執之儀父子確執事候間

とある。また同年12月17日条には以下のようにある。

富士兵部大輔入道祐本方江御状、孫宮若丸就二安堵之儀二千疋、同為御判頂戴御禮千疋…

とある。これは祐本が孫宮若丸における「安堵之儀」及び「御判頂戴御礼」として計3000疋を京都に送ったという内容である。ここで一回整理しますが、富士兵部大輔入道祐本からみて息子が「忠時」であり、孫(つまり忠時の子)が宮若丸と親時である。「安堵之儀」などの文面から、祐本は忠時から宮若丸へ家督を譲ることを推していたわけである。

『戦国遺文今川氏編』第十四号文書、「伊勢貞親書状写」

そうすると矛盾がでてくる。なぜなら、足利義政御内書では「親時に譲る」とあるからである。宮若丸は富士忠時の子であるが、嫡子はあくまでも親時である。おそらく、当時の富士大宮司であった富士忠時は、家督相続は嫡子である親時が筋であると考えていた(普通は嫡子に優先的に家督相続させるものである)。しかし忠時の父祐本は嫡子ではない宮若丸への家督相続を望んだため、ここで祐本と忠時との間で深い亀裂が生まれたのである。そのようなお家騒動の中、「足利義政御内書」にて分かるように、将軍(権力者)からは「親時を大宮司とせよ」という帰結が望まれていたわけである。つまり足利義政の方針は、祐本にとっては意中にそぐわないものであった。

「十五世紀後半の大宮司富士家」によると以下のようにある。

義政の御内書写には、祐本に使節を遣わして「相宥」めたところ、祐本は納得せず、館を出て社頭を放火したという。つまり、祐本による宮若丸への家督譲渡に納得しない将軍義政に対し、祐本は反発して社頭の放火を行った、さらにこの事態に憤慨した義政が、御内書で親時への大宮司職の移動を伝えた、という経緯を知ることができよう。

とあり、祐本が権力者である足利将軍の意向に反発する動きが見られるのである。ただこの前文に「祐本の孫宮若丸は、忠時の子息と考えられるが、祐本は子息の忠時ではなく、孫宮若丸への家督譲渡を考えていたのである」ともある。この部分の記述は、「祐本の孫宮若丸は忠時の嫡子ではないが、祐本は嫡子の親時ではなく宮若丸への家督相続を考えていた」と理解している。仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とあることから、富士忠時が大宮司であることは間違いないし、このお家騒動の時は忠時が大宮司であったということで良いと思う。

『親元日記』三

『親元日記』三

そして親時が大宮司となることとなり、実際に明応六年(1497)に富士親時が「富士浅間宮物忌令」を発しているのである。

『戦国遺文今川氏編』一〇六号文書 ※≈の部分は省略箇所
つまりこのお家騒動は、父であり先代の大宮司と考えられる祐本が家督相続に介入したために起こった騒動と言えそうである。ちなみに「兵部少輔入道祐本」は富士直氏とされている。

『浅間神社の歴史』によると以下のようにある。

現存富士氏系図には祐本の名は無い。されど当時入道しているのを見れば、寛正3年に能登守に任ぜられた右馬介忠時は、その子と想像せられるから、二十五代直氏の入道名であり、また宮若丸は二十八代親時であろう。

とある。実際「兵部少輔入道祐本」が富士直氏かどうかは、正確には分かっていない。しかし、家督相続に異を唱えることができたのは父くらいであろうから、忠時の父と言って良いと思う。尚『元富士大宮司館跡』では「富士祐本が孫宮若丸への家督相続安堵を得て決着したようである」と記しているが、足利義政御内書を見る限りそうではなく、やはり「祐本の意図とは異なり、親時を家督相続することで決着したようである」とした方がよさそうである。ただここまではあくまでも「大宮司職を務めた流れが嫡流である」という前提で書いている。例外があるとすると、理解はもっと複雑になるかもしれない。「富士氏」という考え方と「富士大宮司」という考え方を整理する必要はある。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年
  2. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P8・P167,名著出版,1974年
  3. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(名著出版 1973年)P573-575
  4. 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年
  5. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編第1巻』,東京堂出版,2010年

2012年11月8日木曜日

高橋虫麿の不尽山を詠める歌

高橋虫麿の「不尽山を詠める歌」は以下のようなものである。

なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり とぶ鳥も とびも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊しくも います神かも せの海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

原文は「万葉仮名」である。もちろん、「田子の浦に うち出でてみれば…」の歌も原文は万葉仮名ですね。意味は以下のようになる。

甲斐国と駿河国の真ん中に立っている富士山は、雲をも行く手を阻まれ、鳥も飛ぶのをはばかる。燃える火を雪が消し、降る雪を火が消している。言い表すのが難しい、名をつけることもできない程の霊験あらたかな山である。せの海と名付けられるのも、富士山に包まれているためである。人が渡るその富士川も、富士山から流れい出でている。日本の国を鎮める神とも宝とも言える山である。駿河の国の富士山はいつまで見ていても飽きないことだ。

「せの海」については「富士五湖とは」を参照。以下反歌。

(1)富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ゆればその夜降りけり
(2)富士の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを

の二首である。その後に「右の一首は高橋虫麿の歌の中に出づ。類を以ちてここに載す」の注釈がある。もしこれがただ純粋に「右」だとしたなら、(2)の短歌を指すことになるので、他のものは虫麿作とは言えない。しかし「類を以ちて」がこれら3つを指しているのだとして、この「不尽山を詠める歌」は虫麿作という風に一般には考えられている。

「なまよみ」の意味について諸説あるが、「半分、黄泉」という意味であり、「死者の国と、この世の堺の国」という意味である。「死」や「未開の国」というニュアンスである。この「なまよみ」は甲斐国の枕詞とされているが、このようなおどろおどろしい意味が枕詞であるということに懐疑的な見方もあり、齋藤芳弘氏が「枕詞ではなかった」と指摘している。

「黄泉」自体は「イザナギ・イザナミ」の神話などに出てくるが、当時の識者はこれら神話も知っていたのであろう。「古事記」が撰上されたのは711年とされ、高橋虫麿が富士山を詠める歌を作成したのが「719年-742年」辺りとされる。だから黄泉の説話を知っていてもおかしくはない。つまり「黄泉」が「死」に直結する意味を持つことを知っていたため、「よみ」という言葉を用いたことは想像できる。「なまよみ」が用いられている古代・中世の歌は、『万葉集』『夫木和歌抄』に限られるという。そして双方とも高橋虫麿作と推定されている。つまりこの時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない。そうすると、たしかに枕詞とは断定できないかもしれない。

不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ」の部分は注目である。ここでは「人が渡るその富士川も、富士山から流れい出るのだ」としている。「人の渡るも」というのは、道の途中で富士川が通っているため人が富士川を渡っていく様を表しているのであり、その山というのは富士山を指している。そしてその後「駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも」としていることから、駿河国の富士川付近から甲斐の国を見て歌ったものであるとされる。しかし当然ながら富士川は富士山から発生しているわけではない。つまりイメージで言っていることになる

この事実から、「たった一例しかなかった…(参考文献)」「富士川と五湖への虫麿の誤解…(参考文献)」などで「この人物は甲斐国にいったことは無かった」としている。これだけで甲斐国に行ったことがないとは断定できないかもしれない(実際せの海などを知ってはいるので)。ただ知見があまりないということは言えるし、だとしたら「未開の国」というニュアンスを含めたことも頷ける。この人物は東国・西国を行き来していた人物であり、それでも知見がないとなると、やはり甲斐の国は(他の国と比較して)未開の国として見られていたのかもしれない。その印象を先ず冒頭にもってきたのだろうか。

『古今和歌集』に小野貞樹の歌があるので、挙げてみる。

宮こ人いかにと問はば山高みはれぬ雲いにわぶと答へよ

この歌の詞書に「甲斐の守に侍りける時、京へまかりのぼりける人に遣はしける」とある。つまり、まとめるとこうなる。小野貞樹は甲斐守の任期を終え京へ戻る下僚に対しこう伝えた。もし都で「小野貞樹は甲斐でどのように暮らしているか」と聞かれたら、そのときは「山が高く、雲が多く陰鬱な国で心も晴れずに日々を送っている」と答えて欲しい、と。つまり「なまよみ」と歌われてもおかしくないような印象は、他の人物でも同様と言えるのである。

そしてこの「イメージで言っている」という事実は重要である。この歌は、ある事実からもよく知られている。それは「国のみ中ゆ出で立てる」ということから、例外的に「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」と詠っている点である。他の歌では、まずこのように表現するものは見当たらない。つまり他の歌と比較して、かなり例外的なのである。他の歌では一貫して「駿河の国の富士山」としているのであり、この例外を普遍的であると考えてしまうと、富士山を巡る歴史の理解が進まない。先程のように印象で語っている部分が見られることを考えると、やはり「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」という部分も、印象や根拠のない雑感から歌ったものであろう。ちなみに「せの海と名づけてあるもその山の包める海ぞ」という部分から「せの海」を「富士山に囲まれている」としている。しかしそれも誤りである。だから、例外的認識が出現した原因もこの事例で説明できてしまうのである。

さて、枕詞となった背景としては「国学者が用いたため」としている。先程「この時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない」と書きましたが、大きな時期を隔て、かなり後世になって甲斐国の枕詞として用いられているのである。酒折宮にある、本居宣長撰文平田篤胤筆の石碑「酒折宮寿詞」には以下のようにある。

なまよみのこの甲斐の国のこの酒折の宮はもよ(書き出し部分の読み下し)

このように、枕詞として「なまよみ」を用いている。そして同じく国学者で本居宣長の弟子の「萩原元克」は、以下のような歌をうたっている。

なまよみの甲斐の国みすずかる信濃の国の二国の国のみ中にいや高く(読み下し)

その後も多く用例が見られ、二葉亭四迷の『浮雲』には「殊にはなまよみの甲斐なき婦人」などとあるという。この時代、かなり定着していることが伺える。甲斐の国の古典的表現が、江戸時代になって再び用いられたことが大きいと指摘されている。

  • 参考文献
  1. 斎藤芳弘,『たった一例しかなかった「なまよみの」-甲斐の枕詞を考証する』,甲斐路No.93,1999年
  2. 斎藤芳弘,『富士川と五湖への虫麿の誤解 枕詞でなかった「なまよみ」-万葉集「富士讃歌」解剖-』,甲斐No.122,2010年

2012年11月1日木曜日

富士川の歴史民俗編

富士川は長野県-山梨県-静岡県-駿河湾と続く河川である。富士川の歴史については多面的に考えてみたいが、ここでは主に民俗的な視点で追求したいと思います。

「一遍聖絵」第6巻(一遍上人絵伝)に見える富士山と富士川
  • 文明の基点という考え方

網野善彦「甲斐の歴史をよみ直す」では、以下のように記している。

山梨については、これまで「孤立した山国」という固定したイメージ、理解の仕方がかなり広く行き渡っていたのではなかろうか。(中略)山は周囲から人を隔てるという性格を一面に持っている。しかし、山には山なりの道があった。と同時に甲斐を縦横に流れる河川は山や盆地を海とつなぐ、海に向かって開かれた道だったのである。(中略)このなかで田代氏は、直径五十センチメートルを超える大型の渥美焼が河川に沿って分布している状況を確定しながら、不安定な馬の背に限る陸路よりも、船によって海から富士川をさかのぼって甲斐にもたらされた可能性が高いことを指摘している

これが真実であるとすると、甲斐の国というのは富士川などの河川を基点として文明が開いたといっても過言ではない。このように、富士川から歴史を考える必要性もあるかもしれない。

笹本正治「早川流域地方と穴山氏」には以下のようにある。

河内領という名称について文化十一年(一八一四)に成立した『甲斐国志』は、「河内カワウチ訓ズ。河落ノ転ナルベシ。三郡諸河一道二会集スル処」と伝えているが、この地はまさに富士川を中心として開けているといっても過言ではなく、人家は富士川の沿岸と富士川に流れ込む小河川のまわりを中心として点在している

上は交通手段としての河川の役割についてであるが、この場合は在地の民衆が水の恵みを頼りとし、沿岸に住み着いていた事が感じ取れる。

  • 富士川水運

富士川を語る際、外せないのは「富士川水運」であろう。「『富士川流域河川調査書』にみる物資物流」より引用。

富士川舟運は、(中略)山梨県ばかりでなく長野県、特に、その中信地域の物資物流の大動脈であった。しかし、明治三十六年(一九〇三)には中央線が甲府まで開通し、さらに、富士川に沿って北上してきた富士身延鉄道の昭和2年の完成によって富士川舟運は近世初頭以来のその役割を終える。 

とある。そしてこのような認識で正しい。しかしそれまでは非常に重視された物流手法・ルートであった。その地域における位置づけも大きく、外せないものであっただろう。しかし後に完全に衰え、過去富士川水運で栄えた地域は今は衰退している(例:鰍沢町(現・富士川町)、南部町など)。田山花袋の『赤い桃』には以下のようにあるという。

鰍沢は十年前とはまるで変ったやうなさびしい町になってゐた。(中略)依然として川舟の出る河港はあった。しかしそのさびれてゐることよ。その衰へてゐることよ。その茶店のさびしく田舎的になってゐることよ。

つまり水運という糧を失って、町自体が寂れてしまったのである。鰍沢は舟運の町と言ってもよく、鰍沢の人口増加は水運の発達によるところが大きい(明治二十年代は最盛期だという)。「富士川運輪会社」なるものも、鰍沢に設立されている。これは明治八年のことであるが、中央線が甲府まで開通した明治三十六年から数年後の明治四十四年には、富士川運輪会社は総会を開き会社存廃の件を議題にしている。この事実からも、中央線開通の影響力の大きさが感じ取れるだろう。その後は悲惨な状況であったという。

『富士川流域河川調査書』には「鰍沢、青柳、黒沢、三河岸、市部、切石、南部、下稲子、沼久保、星山、松野、岩本、松岡、堀川、岩淵」のデータが記されているという。そしてこの地域は共通して富士川沿いであり、河岸・船着場などがあった地域と想定される。広域であり各地域について取り上げることは不可能であるため、ここでは富士宮市を例に説明していきたい。

富士宮市で富士川水運で栄えた場所は概ね「稲子」「沼久保」かと思う。沼久保は現在も問屋跡が残る地域である。問屋は物資などを保存・管理する場所である。以下の建物がそれである。

問屋(富士宮市沼久保)
「富士川-富士川水運-問屋」のイメージは重要である。




実は私は敷地内に入れてもらい、詳しく話を伺っています(ありがとうございます!)。なので、内部からも撮影できています。やはり私は、重要な歴史遺産だと思いますね。

  • 角倉了以
角倉了以は、富士川水運の環境を整えるため開削を行った人物である。角倉了以は本性は吉田氏といい、宇多源氏の流れという。近江佐々木氏の一流で、近江の吉田の地を根拠地とし吉田氏を称したという。その後(吉田)徳春が京にて室町幕府に仕え、その子宗臨が土倉を営んだため「角倉」と称されるようになったという。

「近世の富士川水運」によると、以下のようにある。

慶長十二年角倉了以が幕府の命を受け開鑿浚渫を行い通船が可能となった。(中略)しかしこの大事業が慶長十二年に完成したとは考えられない。市川大門村(町)円立寺の鎮守天神祀の天神画像の裏書に「慶長十七年(中略)京都角倉勝左衛門富士川通船始之砌祈願之天神」とあり、おそらく慶長十七年に富士川通船が創始されたと考えるのが妥当であろう

としている。また同論考によると貢米(年貢米)は「-岩渕-蒲原(陸送)-清水港-江戸」と運ばれたようである。そしてこれを扱う問屋は独占的特権であったという。これらの地域は重要な輸送ルートであっただろう。

  • 難所
「富士川水運の民俗」によると、以下のようにある。

鰍沢から岩淵まで富士川十八里を船頭たちは『カワタケ』とよんでおり、『カワタケ』とは川が滝をなして流れることからよぶので、『カワタキ』というのだともいわれており、『カワタケ十八里』のうち支流早川の合流するところから上流を『クニガワ』といい、富士川とは早川の合流する下山以南を指してそうよんだのだといい、船頭らは船がクニガワに入つて来るとホッとしたという。

この論考は1961年のものである。そして鉄道開設(=水運の終わり)が明治三十六年の1903年であるから、この当時の論考でなければわからぬ部分もあると思う。習慣などについても詳しく掲載されており、大いに参考になる。

富士川において、難所は最も厄介であった。十坂舎一九『金草鞋』には以下のようにある。
舟のあたらざるやうに岩をよけて、舟を自由にまはすこと、まことに見るにあやうく、(中略)かくて富士橋の下、釜が淵といふところは、まことに目をあきてみられず、恐ろしき難所なり、そこを過ぎて、ほどなく東海道富士川にいでたり
このように、非常にスリリングなものでした。「富士川水運の悪場(難所)」によると、「天神ヶ滝、屏風岩、銚子ノ口(釜口=旧芝川町)」の三箇所は「富士川水運三大難所」と呼ばれていたという。ある種、賭けのような場所であったのだろう。川の合流点が「釜」で、水深があるところを「淵」というといい、そういう地名が多い。

しかしここまで犠牲を払ってまで水運に頼るのは、やはり生産の拡大や流通の必要性があったからである。水運は効率的であり、選択肢としては外せなかったのだろう。上で年貢米の例を出しているが、幕府の天領であった甲州は直轄の支配を受けていた。甲府の支配域の年貢分は鰍沢河岸から、市川の年貢分は青柳河岸から、石和の年貢分は黒沢河岸からと各河岸から積み出されることが決まっていたという。その関係で、これら地域には大規模な蔵があったであろう。特に鰍沢は諏訪領の米も積みだしていたといい、鰍沢に位置する諏訪問屋の裏の出入り口が由来となって『裏門』という地名があるという。

また『甲斐国志』にも「アクバ」が記され、やはり「銚子の口」などは記されている。古くから懸念の案件であったのだろう。鰍沢には「八幡神社」があるが、これは舟運安全祈願の社であったという(「研究材料七、建築」)。

  • 水運と客船

東海道線が開けてからも、水運は尚生活に必要なものであったという。例えば、電車の発着時間に合わせ水運の時間も調整していたようである。それ故に「時間船」「普通船」といったようなものがあったという。実は私もこの話は聞いたことがある。不特定多数の山梨在住の高齢者に話を聞いたことがあるが、水運で下って静岡の鉄道線に乗った方が圧倒的に効率的に移動できたらしい(私が静岡なのでこの話題を出したのだろう)。これはかなり強調されていたので、習慣的な方法であったのだと思う。「郵便船」というものもあったといい、『甲府局誌』によると「明治四年甲府柳町二十二番地に郵便取扱所を設置、東海道吉原より甲府へ郵便枝道を開いた」とあるという。

以上、富士川の歴史でした。

  • 参考文献 
  1. 青山靖,「富士川水運の民俗」『甲斐路』No1,1961年 
  2. 齋藤康彦,『富士川流域河川調査書』にみる物資流通,『甲斐路』No.88,1996年 
  3. 望月武実,「角倉了以と富士川の開削」,『甲斐路』No.88,1996年 
  4. 清水小太郎,「近世の富士川舟運」,『甲斐路』No.88,1996年 
  5. 石川博,「富士川下りを描いた文学」,『甲斐路』No.88,1996年 
  6. 立川實造,「富士川水運の悪場(難所)」,『甲斐路』No.88,1996年 
  7. 羽中田壮雄,「建築」,『甲斐路』No.88,1996年 
  8. 網野善彦,『甲斐の歴史をよみ直す―開かれた山国』P11-14,山梨日日新聞社,2008年改版 
  9. 笹本正治,「早川流域地方と穴山氏」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年