2013年4月30日火曜日

富士市岩本に出された制札と富士山登拝

富士山南麓の登山口としては「大宮口」「村山口」を構え、双方が富士山信仰の拠点であった。それ故に大宮と村山には浅間神社が位置し、それぞれ禊の場が設けられていた。

この双方の位置関係としては、大宮が駿河湾側にあり、村山はより富士山体側に位置するため「大宮・村山口登山道」と一括りにされている。確かに古来より「大宮-村山」ルートは基本的な道者の辿るルートであったが、江戸時代はそれに反発する動きが明確にみられたのも事実である。そしてその部分は道者の登拝の風俗という意味で大変興味深く、また双方の勢力の動向という意味でも大変興味深い。ここではその部分について探ってみようと思います。

「富士山南口案内絵図―村山修験者と南麓富士登山―」(富士市立博物館学芸員 荻野裕子)には以下のようにあります(富士市立博物館HP)。

(富士山絵図などを吟味した上で…)しかし富士川を渡ったあと、すぐに北上させるのではなく吉原宿の手前まで道者を誘致するようになったことは何を意味するのか。寛文2年(1662)、大宮代官・井出籐右衛門と加島代官・古郡孫太夫は、かねてからの制札として、富士参詣の道者は凡夫川(潤井川)をすぐに渡らずに大宮を通るべきという制札を岩本に出し、また宿坊への道者の争奪は禁止する制札を大宮に出している

それら岩本(現在の富士市岩本)に出された制札は以下のようなものであり、この制札は重要な事実を示している。

慶長年中の制札

「大宮を通行しなければならない」と書かれているのだから、当時「大宮を通過しない登拝も蔓延っていた」ということを明確に示していることになる。そしてその背景に「村山」がいるのである。また以下のように続いている。

寛政10年(1798)には富士本宮浅間社の公文・富士長門が、近年富士参詣道者が古来からの決めを破って大宮を通らず、直ぐに岩本村から村山に行くため本宮浅間の坊が大変迷惑している、このため先年の通り大宮・岩本に制札を出して欲しいと韮山代官・江川太郎左衛門に願い出ている。これを受けた江川は、翌年に井出と古郡が寛文2年に出した制札の通りにせよと、新しい制札を出しているのである。

つまり次のようになる。村山の修験者からすれば「富士川-岩本(富士市)-村山(富士宮市)」と直接村山に来てもらったほうが都合が良いのであるが、しかし大宮の社人からすれば道者が大宮に訪れなくなり、直接的な不利を被ることになるわけである。

それに対し公文富士氏が代官に願い出て、それ(大宮を通過させること)を実現させているのである。つまり村山からすれば、大きくマイナスとなる。そして以下のように続きます。

村山は自らの坊への直接の道者誘致を禁止されたことになる。大宮を経由することは、少なくとも道者の何割かは大宮の宿坊を利用することになり、村山への収入は減少することになる。また登山税である山役銭も、大宮を経ればそこで徴収され、大宮を経なければ村山で徴収できることになっていた。村山の道者誘致ポイントは富士川東岸の岩本であり、そこに制札が出されたからには村山修験者は岩本から村山へ直接至る道(無題の南口絵図の行程がこれにあたる)を示すのは、難しくなろう。

これらのやり取りの事実から、当時大宮と村山は決して良好な関係ではなかったであろう。ある意味、熾烈な道者の奪い合いである。しかし古来より大宮と村山が不仲な関係であったわけではない。そればかりか、信仰面から連携する面すら見られるのである。例えば文明10年(1478)の大日堂如来像は、大宮の富士氏と村山修験が協力して作ったものである。

このように江戸期に村山が積極的な動きに出るようになった背景として、おそらく村山の著しい衰退が理由としてあるのだろう。大宮と村山の関係性がどのようにして変移していったかについては、大変興味深い。

また以下のように続きます。

こうした状況のなかで、「駿河国富士山絵図」が製作されたのではないだろうか。もし吉原宿手前から道者が北上するならば、”富士参詣の道者は凡夫川(潤井川)をすぐに渡るべきではない”、という制札の部分には少なくとも触れずにすむ。東海道を通って潤井川を渡ることになれば、止められるはずもない天下の公道である。この図と非常によく似た内容を盛り込んだ、文政10年(1827)個人開板の「駿州吉原宿絵図」では、富士山へと至る道は岩本から北上し大宮を経由して村山に至る道と、吉原宿から大宮へと至る道を示し、必ず大宮が経由されている。この状態ならば寛政11年の制札に抵触することなく、制札内容に乗っ取った正しい絵図ということができる。 元市場での富士山図頒布は文化8年の記録であり、寛政11年の制札以降のことである。柚木よりさらに東の元市場で頒布されたこの絵図は、「駿河国富士山絵図」や「駿州吉原宿絵図」のような道筋を示したものではないだろうか。 

この考察は強く傾聴すべきだと思える。つまり登拝ルートは多くとも2パターンであり、「①大宮経由」「②吉原宿からすぐ北上し村山へ」の2つである。②は紀行文などから多く見いだせるパターンである。これ以外のルートはほとんど見いだせない。あるとしたら江戸の最末期-明治時代の地図くらいで、恒常的とは言い難い例外のパターンであったと言える。

  • 参考文献
  1. 荻野裕子,「富士登拝案内絵図-富士村山修験者たちの画策-」『人はなぜ富士山頂を目指すのか』,静岡県文化財団,2011年

2013年4月28日日曜日

紙本着色富士曼荼羅図を考える

以下は、奈良市矢田原組合所蔵の富士曼荼羅図である(奈良市指定文化財)。


江戸時代中期に作成されたものとされ、表口を描いている。「絹本着色富士曼荼羅図」の作成時期などと比較すれば時代はやや下るが、個人的にはそれでも比較的早い例に思える。例えば多く残る富士山関連の絵図(曼荼羅図など信仰関連)は富士講関連のものが多く、富士講は江戸時代中期以降に成立したものなので、作例として時代は大きく下っていることが多い。しかし当曼荼羅図はそれに該当しない。またそれら曼荼羅図が大和国に伝わっているという事実は大変興味深い。それは当地に表口関連の信仰があったことを示すためである。全体としては、位置関係が大きくデフォルメされている印象がある。

  • 富士山本宮浅間大社
下に描かれる海は駿河湾であるが、具体的にどこを指すかは推定し難い。ただその上の円上の水場は湧玉池であると思われる。従って、その上の社は富士山本宮浅間大社に比定できる。

富士山本宮浅間大社

  • 村山
位置関係としてやや不自然にあるのが以下の社である。ただ竜頭滝を示すと思われる水場があるため、これは富士山興法寺に比定できる。

富士山興法寺

上の場所が富士山興法寺だとすると、以下の場所が何を指すのかはいっそ不明となる。村山であると思えるが、「すやり霞」により大きく逸脱した場所を指していることも考えられる。


この社より上は、すべての道者が杖をもち登山を行なっている。中宮八幡堂などの建造物を示したのだろうか。


この社より上の道者は松明に火を灯している。このことから、上の図の場所との時間的差異や距離感を演出しているように思われる。また「絹本着色富士曼荼羅図」では大日堂と推定される建造物より上の道者が同じく松明に火を灯し登拝を行なっている。このことから、以下の社は大日堂を思わせる。



山頂である。阿弥陀三尊が描かれており、山頂の神聖さを示している。また、登拝路の頂上に鳥居を描いているのは特徴的に思える。「登拝路の終着点に神社が位置する」という概念を明確に示している。

山頂の阿弥陀三尊

当時はまだ「浅間神社奥宮」ではなく「富士山興法寺の大日堂」として存在していたはずである。その当時に描かれた曼荼羅図で鳥居が描かれているという事実は大きい。と同時に、詳細な作成時期の分析も必要と思える。

全体としては位置関係などにデフォルメされた印象を強く感じ、当地に知見のない人物が描いたように思える。ただ全体的には村山に重きが置かれているように感じるため、村山修験と関わりのある人たちが背景にあると思われる。


  • 参考文献

  1. 富山県「立山博物館」編,『立山・富士山・白山みつの山めぐり : 霊山巡礼の旅「三禅定」 : 富山県「立山博物館」平成二十二年度特別企画展』,2010年

2013年4月23日火曜日

県指定富士浅間曼荼羅図を考える

富士曼荼羅図は複数が現存しているが、その中でも「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)は著明である。しかしその次を上げるとすれば、やはり以下の富士参詣曼荼羅図であろう。

富士参詣曼荼羅図

この県指定富士参詣曼荼羅図は「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)と同様室町時代作と考えられており、また同じく絹本着色である。以下、この県指定富士参詣曼荼羅図について取り上げたい。また当曼荼羅図について詳細に検討している文献に「富士参詣曼荼羅再考-富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象に-」(大高康正)がありますので、そちらをベースに書いていきたいと思います。

この富士曼荼羅図は駿河国の現在の富士山本宮浅間大社を中心として描かれたものであり、それは湧玉池が大きく描かれていることからも明確である。他「清見寺」(+関所)「富士川」「駿河湾」「三保松原」などが描かれており、この点で言えば重要文化財指定富士曼荼羅図と広い意味での構成は同様である。しかしこの曼荼羅図において特筆すべきは、本宮を主体とし、また本宮と関わりがあると考えられる要素が広く散りばめられていることである。また本宮をスケールアップしつつも、遠くに位置するはずの「清見寺」などが遮るものなく下部に位置し、富士川が真ん中を横断する構造は絹本著色富士曼荼羅図よりデフォルメされている印象は非常に強い。

大高氏は本宮の社殿左右にある「棕櫚の木」に着目している。

浅間大社と棕櫚の木と神官
棕櫚は富士氏の家紋であり、この関係は注目である。棕櫚は「神霊の宿る葉として昔から尊ばれた」(『姓氏・地名・家紋総合事典』)と言われていることから、強いメッセージ性を感じるものである。

また同稿では「境内には道者と烏帽子を被る神官と思しき人物の二種しか描かれていない」とある。そして「本宮の聖域性が強調されている」としている。

富士山本宮浅間大社の神官
元画像が悪く見えにくいが、これが「烏帽子を被る神官と思しき人物」である。本宮の神官(のうち上級社人)を絵で記したものは他に無いように思える。個人的には神官が3人という点が気にかかり、大宮司・公文・案主(つまり富士氏)を指す可能性も考えたい。

また神官から上の部分をみると巫女が描かれており、これを「国指定本の富士山興法寺にみられたものと同様で、ここが村山であることを示していよう」としている。国指定本とは、重要文化財指定の曼荼羅図を指している。また「滝と橋」の図も興味深い。

竜頭池から流れい出る水
これは「竜頭の池」から流れでたものとしている。また左方向には「道者が弓矢を射る様子」があり、以下のように説明している。

本宮近辺の大字阿幸地にも「矢立」という小字が残っており、吉凶を占うということが目的の矢立の習俗は、各所で頻繁にみられたのであろう。

阿幸地は「悪王子」から来ている。「浅間大菩薩縁起」(滝本往生寺所伝)などの富士山縁起には、山頂の水精ケ岳に悪王子が祭られて「悪王子ケ岳」とも呼ばれ、末代ゆかりの霊地とされていたようである(「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』P123)。

  • 背景
大高氏は作成主体は浅間大社の社人衆にあったとし、特に勧進活動に関係する宮崎氏などではないかと想定している(宮崎氏については「社家町としての駿河大宮」を参照)。そして作成時期については十六世紀後半を想定しているという。当時の本宮の情勢などを大きく加味しているようだ。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「富士参詣曼荼羅再考-富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象に-」,『絵解き研究 18』, 2004年
  2. 丹羽基二,『姓氏・地名・家紋総合事典』,新人物往来社,1988年

2013年4月6日土曜日

源頼朝の富士の巻狩

「富士の巻狩」は、源頼朝により建久4年(1193)5月8日から6月7日の1ヶ月にわたり行われた行事である。この「富士の巻狩」は、政治的背景からも重要な位置づけにあったことが分かっている。単なる行事としての巻狩ではないのである。

「月次風俗図屏風」(16世紀とされる)
「富士の巻狩」については『吾妻鏡』に詳しい。世に出ている「富士の巻狩」についての解説は、普通『吾妻鏡』に拠るところである(『吾妻鏡では「富士の巻狩」とは言っていない』)。

  • 富士の巻狩の経過

建久4年(1193)5月8日、頼朝は多くの武将を率いて藍沢(現在の裾野市・御殿場辺りとされる)へと出発した。同15日には藍沢での狩を終え、富士野の御旅館(富士宮市付近)へと移動した。鎌倉は東に位置するために「裾野・御殿場-富士宮市」と移動していたのである。15日は六斎日(殺生を忌む日)であったため、狩りを行わなかった。頼朝一行はご旅館で体を休めた。

翌16日には巻狩に興じた。このとき頼朝の嫡子「源頼家」が鹿を射止め、頼朝は大いに喜んだ。そしてその場にいて事をうまく運んだ「愛甲季隆」を賞賛した。夜には頼家の獲物に対して山の神に感謝する「矢口祭」が行われた。このとき千葉常胤・北条泰時・三浦義澄らが同席した。

曽我物語 富士巻狩・仇討図屏風



また巻狩の際に功労があった者として工藤景光・愛甲季隆・曽我祐信が呼び出された。矢口祭の形態としては、「黒・赤・白」と三色の矢口餅を神に捧げて三口餅を食べ、矢たけびの声をあげるといったものであったという。頼朝はこの三人に賞として馬・鞍・直垂などを与えた。また頼朝は梶原景高に命じ、頼家が獲物を見事射止めたことを妻の北条政子に報告するよう命じた。しかしその知らせを受けた北条政子は「武将の嫡子が鹿や鳥を仕留めることなど当たり前のことです。そんなことで急使をよこす必要性などない」と、冷淡な反応を示している。

5月27日には終日狩を行った。そこで工藤景光が「この鹿は自分に射させてほしい」と願い出て、鹿を射ようとした。しかしあたらず、その後もあたることはなかった。景光は頼朝に手をついて謝り、「私はこれまで獲物を逃すようなことはありませんでした。この鹿は山の神の化身に違いありません」と述べ、その後発病してしまったという。工藤景光は自らが射ようとしていた鹿が「山の神」だと悟り、罰当たりな事をしてしまったと悔いていたのである。有名な「曽我兄弟の仇討ち」については、この後からでてくることとなる。

  • 富士の巻狩の意味

「富士の巻狩」の意味として、多くで「権威の誇示」といった部分が挙げられている。では何故この時期にこのような大規模な催事を行う必要性があったのだろうか。その理由として、頼朝が征夷大将軍となりこれから本格的な統治を行うという段階であったためである。またこの巻狩の目的として「頼家の後継者としての確立」が挙げられている。そのために、多くの有力武将の前で武勇的な側面を象徴させる必要があったという指摘もある。

同じく後継者としての可能性を持ち合わせていた源範頼(頼朝の弟)がまさにこの後に殺されていることから、頼家の後継者としての位置づけをはっきりとさせる意図があったと思われる。つまりこの巻狩は、今後の幕府運営の上で重要な転機となったといえるのである。この象徴的行事の中で、粛正に対する意識が強まったと考えてもおかしくはない。また源範頼のような凋落の運命を辿った武将は他にも存在している。今後の幕府運営のためか粛正が行われており、安田義定などがそれである。

また巻狩自体が周到に準備されていたことも指摘されている。実は富士の巻狩以前に「三原野」と「那須野」で同じく巻狩が行われているのである。つまり「巻狩」という意味では、特に目新しいものではない(規模的にはかなり差がある)。しかしながらこの直前の巻狩と富士の巻狩は、性質的に異なる意味をもつ。それは富士の巻狩でより政治的に直結するような動きがみられることである。それが上の粛正につながっている。

  • 富士の巻狩の人物

那須野の巻狩の後、頼朝は北条時政を富士の巻狩の準備のために駿河国へ赴かせている。この巻狩は駿河国で行われたため、伊豆・駿河の御家人が多く参加していることも特徴である。また他に「甲斐源氏」なども多く参加している。

規模は相当のもので、『吾妻鏡』でも名だたる武将を羅列した後「そのほか射手たる輩の群参、あげて計ふべからずと云々」とある。数えられない程の群集であったようである。また西洋人の記録としてジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』があるが、そこでは「昔、将軍の頼朝が、ここでかの有名な野獣狩を、三万人の狩人をもって行った」とある。三万人という数字がどこから出たのかは不明であるが、そのように表記するだけの規模はあったと言える。

  • 参考文献
  1. 石井進,『日本の歴史 12 中世武士団』P60-70,小学館,1974年
  2. 木村茂光,『初期鎌倉政権の政治史』P133-164,同成社,2011年
  3. 小和田哲男,『日本を変えたしずおかの合戦~駿河・遠江・伊豆~』,静岡県文化財団,2011年
  4. ジョアン・ロドリーゲス,『日本教会史 上』(大航海時代叢書第I期),1967年