2013年5月20日月曜日

富士山における庚申縁年

富士山には庚申縁年という考え方が存在する。「庚申」は以下の年度が該当し、その年は富士山にって特別な年となるわけである。次の庚申縁年は2040年である。

16世紀以降の庚申年一覧
年号西暦
明応9年1500年
永禄3年1560年
元和6年1620年
延宝8年1680年
元文5年1740年
寛政12年1800年
万延元年1860年
大正9年1920年
昭和55年1980年
---2040年


なぜ庚申が「縁年」と考えられているかについては、「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承による。しかしそれは「庚申と富士山がどう関係するのか」という場合の話であって、背景には浅間神社の社人や御師などがその恩恵などを人々に示したためであろう。

庚申年は登山風俗上も大きな変化があり、例えば女人禁制が一時的に解除される。また縁年という有難味から、特に道者が多く訪れる。道者が多く訪れることから、奪い合いも激しさを増す。庚申縁年の状況を示すと思われる有名な史料は『妙法寺記』である。明応9年(1500)の条に

此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走ヘ皆導者付也

と記されている。これは関東の乱が影響して特に須走口に道者が集中したという、須走口の状況を示した記録である。「限りなし」は、明応9年の庚申の年ということもあって多くの道者が訪れたのだと解釈できる。

また歌川広重の浮世絵の詞書や、葛飾北斎の『富嶽百景』には「考霊天皇5年富士山出現」を示すとされる記載がみられる。

延年である延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある。これは当時「庚申縁年」の認識があったことを明確に示している。また正福寺は吉田に位置し、富士山信仰と関わりがあったことが指摘されている。この当時富士講は未だ発生していなかったことを考えると、富士講発生以前にも吉田には庚申縁年の伝承は根付いていたと考えて良い。『妙法寺記』の記述では庚申との関係性は明確ではない。しかしこの木版から、いっそはっきりするのである。

また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には

六月富士山参詣之導者面口六千人程有、…

とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。

また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。

これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。

これらのことから、延宝8年(近世前期)にはすでに庚申縁年の考え方が相当広範囲に広まっていた、と考えられる。この年に多くの道者が富士山を目指して各信仰登山道集落にやってくることは、事前に予測されていた。しかもこのことは延宝八年に初めておこったのではなく、それ以前にも庚申年に信仰登山道集落に多くの道者が押し寄せた経験があったからこそ、その再現が期待されていたものと思われる。

とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。

公文富士氏「導者付帳」(慶長17年)による
年代西暦人数
元和元年161520
元和2年1616217
元和3年1617412
元和4年1618438
元和5年1619119
元和6年1620746
元和7年1621348
元和8年1622207
元和9年162352


明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。

大鏡坊文書
年代西暦人数
享保13年1728311
天文5年17401440
寛政5年1793400/500
寛政6年1794600
寛政7年1795500
寛政8年1796400/500
寛政10年1798400/500
寛政12年18002000
享和元年1801200


「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。

そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。

またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。

  • 参考文献
  1. 菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008

2013年5月7日火曜日

村山修験と富士郡各地域間との富士野論争

村山修験の衰退の理由の1つとして、そして村山の凋落を物語る出来事として「富士野論争」がある。この論争は比較的知られているが、複雑で掴みづらい所はある。

しかしこの論争が、基本的には「大宮と村山」という二大勢力間で行われたことは間違いない。そしてこの富士郡において大きな動きであったことは間違いないだろう。

※富士野とは富士上方の富士山西南麓一体を指す。古くは『吾妻鏡』などで名が見える
  • 明歴期の論争
以下の15もの地域が村山三坊の大鏡坊を訴えたのが明歴期の論争である。
  1. 富士郡大宮町
  2. 山本村
  3. 星山村
  4. 岩本村
  5. 入山瀬村
  6. 杉田村
  7. 久沢村
  8. 厚原村
  9. 野中村
  10. 中里村
  11. 下小泉村
  12. 若宮村
  13. 源道寺村
  14. 黒田村
  15. 淀師村
この争論は以下のような過程で経過していく。


年代内容差出→宛所
明歴2年6月14日大鏡坊と大宮町の野論について評定所で吟味するも、不明分として、論所の見分や解決を、勧定頭たちは代官に委ねる勧定頭・寺社奉行→代官
明歴2年11月25日誓紙をして立会絵画を作成し、江戸へ出頭するよう、勧定頭たちは直接大鏡坊へ指示する勧定頭・寺社奉行→大鏡坊
明歴3年6月19日論所が留山にもかかわらず草刈したり、公事相手の村へは通常の二倍の富士参詣の役銭を要求するなど、大鏡坊の非法を、村から訴える若宮村他6ケ村→奉行所
明歴3年10月18日論所を見分けした手代とともに、誓紙をしない大鏡坊を速やかに江戸へ出頭するよう、三奉行が代官に指示する三奉行→代官
明歴3年12月17日大鏡坊が堺をつけた論所の3分の1を、大宮町と他の村々へ渡す内済案を、大鏡坊から大宮町へ渡す大鏡坊→大宮町など
明歴4年4月14日墨筋の境目を社領として認める裁許三奉行→大鏡坊・大宮町他14ケ村

史料5の段階では、訴訟側の地域として「天間」「上中野」「若宮村」が追加されているようである。

また寛文9年には別の野論が再燃しており、大鏡坊により富士野への草刈が留められたことを発端に蒲原領・加嶋領・甲府領の39の村が訴えを起こしている。

  • 延宝の争論
明歴期の論争にて確定した(村山三坊支配の)境界外の場所において新規に薪取りを止められ、また鎌取などの被害にあったことを発端とし、延宝2年(1674)に蒲原領・加嶋領・甲府領の37の村が訴状を提出して村山三坊の非法を訴えた論争が延宝の争論である。

延宝の争論は以下の過程で経過していく。


そして延宝7年についに決着することとなる。それが以下の裁許である。



駿河国富士郡大宮町、以下蒲原領・加嶋領・甲府領などの計42の村々が冨奥院・村山三坊を訴えたものである。この裁許状は老中大久保忠朝以下10名の老中と三奉行が連名している。内容は以下のようなものである。

  • 冨奥院の流罪
  • 村山社領とされた地も含めて、論所は「入会地」と新たに認定する
  • 地西坊・大鏡坊の江戸十里四方と駿河国の追放
  • 村山修験と関わる山宮・粟倉・上小泉村の人々の追放

これにより、村山修験の浅間社のある土地などは、富士山信仰の地としての性格は大きく薄れたとみてよいだろう。また村山三坊の追放などから、力・権威を大きく失うこととなった。村山修験衰退の1つの原因であることに間違いないだろう。

  • 参考文献
  1. 宮原一郎,「近世前期の富士村山修験と野論争論」『國學院大學校史学術資産研究(紀要)第3号』,2011

浅間大菩薩縁起を考える

近年の富士山史関連の学術的見地において、最も大きな発見・動きは「新出の富士山縁起が発見されたこと」ではないかと思う。その中でも『浅間大菩薩縁起』の標題をもつ富士山縁起は注目されるものであり、現在「神奈川県立金沢文庫」に収蔵されている(富士縁起(全海書写)ではない方*1

浅間大菩薩縁起

「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」には以下のようにある。

たまたま金沢文庫の仕事のかかわりで『浅間大菩薩縁起』という、中世の富士山の縁起を記した写本が見つかりました。(中略)それはちょうど巻末にあたる部分で、奥書には底本が建長3年(1251)に写されたものであることが記されております。(中略)

これが『浅間大菩薩縁起』である。また以下のようにもあります。

それ(『富士浅間大菩薩の発見』)と前後して、(中略)雑多な古書の切れはしを集めた箱の中から、鎌倉時代の終わりに全海という鎌倉極楽寺系の律宗の学僧が書き写した富士山の縁起の1部を探しだしてきました。断簡ではありますが、これは明らかに今まで知られていた富士縁起の1番古い形を伝え、しかも「かぐや姫」伝説の部分が含まれていたのです

とある。これは富士縁起(全海書写)です。

富士縁起(全海書写)

『浅間大菩薩縁起』には末代上人以前に「金時(上人)」「覧薩(上人)」という人物が登山を行なっていたことが記されているのである。これは、これまでの(富士山史の)解明作業の限界点を広げる発見であり、興味深い。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

この縁起は、底本段階ですでに錯簡があったらしく、配列について若干の疑義はあるが、末代が登山する以前、年代も分からない往古に金時上人が初めて登山し、山頂い仏具などを埋納したという。次に覧薩上人が天元6年(983)6月28日に登山、さらに天喜5年(1057)に日代上人が登山したという。

このことから、末代上人が初登頂と考えるこれまでの傾向に終止符を打ちそうである。またこれらの人物の名前が伊豆走湯山の開祖とされる人物と共通する部分がみられるといい、関係性が指摘されている。

  • 富士山大縁起(東泉院所伝)について

富士山縁起には「富士山大縁起」(東泉院所伝)というものがあり、『浅間台菩薩縁起』との関連性を見出すことができる。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

奥書によると、この縁起書は、年代は不明であるが「五社正別当妙行」と称する人物が相伝し、正和5年(1316)に「正別当頼尊」が書写したものが原本であるという。(中略)最初の3部は考元天皇元年に震旦から来訪した「金覧(言偏に覧)上人」が記したという体裁となっているため

とある。また「(東泉院の縁起が)それほど古いテキストとは思われない」(P120)としている。そしてその「金覧(言偏に覧)上人」について以下のように推測している。

東泉院本大縁起の「金覧上人」とは、末代以前のこの2人の登頂者の人名、ひいては走湯山開創の二仙人の名を合成したものと考えることも可能である。室町後期以降、村山修験は聖護院末に包含されたために、役行者を開創として崇めるようになるが、これと袂を分かった走湯山系の修験の一派が、下方地区に東泉院を建てて移動し、醍醐派の法灯と、古い伝承を伝えたのではないであろうか。

これらを鑑みると、東泉院は富士山信仰から離別してできた過程できた建造物とも捉えられるのである。この縁起について「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」では

富士山だけで完結しておらず、隣にある愛鷹山を含み込んでいたということがわかります。その中に「かぐや姫」の説話が含まれているのです。(中略)東海道筋に位置していた今泉東泉院に伝わる縁起は、富士山よりも愛鷹山を強調しています。

とあり、東泉院は富士山から離れた東海道を意識した建造物とみられている。また愛鷹山に重点を置いていたと見られている。「愛鷹山縁起」という見方ができるのである。

では『浅間大菩薩縁起』を考えていきたい。「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」には以下のようにある。

新出『縁起』は、巻末に建長3年(1251)「冨士滝本往生寺」において書写した旨の本奥書がある。滝本往生寺とは、富士山の村山登山口(廃道)の1合目、ちょうど森林限界にあたる地点に江戸中期まで存在した山岳寺院である。

つまり村山に伝わる富士山縁起である。一般に滝本往生寺(御室大日)は富士山興法寺(大日堂・浅間社・大棟梁権現)に含まず、別個として扱う。それは先にもあるように森林限界にあたる比較的標高の高い場所に位置するためである。

『浅間大菩薩縁起』によると、末代は本名を「有鑑」といい、駿河国の人物であるという。また以下のようにある。

末代の登頂は、山麓の「高下貴賎」の住人の支援を受け、下山後は山宮(大宮浅間社の末社)の宮司・神官らが歎讃したという。

また『地蔵菩薩霊験記』などと共通の内容がみられ、縁起以外の史料と共通した記述がみられる点はかなり大きい。「金時(上人)」「覧薩(上人)」については、以下のように説明している。

新出『縁起』が記す末代以前の金時・覧薩・日代、三名の富士登頂者は、いずれも従来全く知られていなかった人名である。(中略)新出『縁起』が引用する『金時上人記』なるものが、こうした記述の下敷きになった可能性はあり、伝説的な人名であるにしても、9世紀ごろに富士登頂に成功した人物がいた可能性は高い。しかし末代の直接の先蹤といえる日代の存在は、ある程度確実な記事によっていると考えられるのに対し金時・覧薩の二名は事跡も明瞭ではなく、実在性に疑問が残る。なぜならば、この2人の名前が走湯山の開創伝説に登頂する仙人の名前を模しているからである。

としている。しかし日代は少なくとも末代以前に登頂したと考えられるので、今後大きく影響を与えていくものであると思う。そしてこの縁起は、村山と伊豆走湯山との関係をいっそ裏付けるものとなっている。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文, 「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」,『史学 73(1), 1-14』,慶應義塾大学,2004
  2. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  3. 西岡芳文,「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」『立教大学日本学研究所年報 (5)』,2006
  4. 神奈川県立金沢文庫編,『金沢文庫の中世神道資料』,神奈川県立金沢文庫,1996
  5. 神奈川県立金沢文庫編,『寺社縁起と神仏霊験譚』,神奈川県立金沢文庫,2003
*1: この2つは両方とも「金沢文庫の富士山縁起」と説明されることがあるので、区別する必要はある

2013年5月3日金曜日

富士山噴火と甲斐国八代郡浅間神社の創建

富士山信仰において、その富士山を祀る神社として「浅間神社」がある。甲斐国における浅間神社創建の直接の動機となった出来事は富士山の噴火であり、噴火の様子と合わせ甲斐国初の浅間神社建立までの過程は比較的詳細に記録されている。

※正史で確認できる富士山噴火の最初の記録は天応元年(781)である。

  • 浅間神社建立までの背景

『日本三代実録』の貞観6年5月5日の記録に

駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。其勢甚熾。焼山方一二許里。光炎高廿許丈。大有声如雷。地震三度。歴十余日。火猶不滅。焦岩崩嶺。沙石如雨。煙雲鬱蒸。人不得近。大山西北。有本栖水海。所焼岩石。流埋海中。遠卅許里。広三四許里。高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。

とあり、駿河国側が富士山の噴火を報告している。

『日本三代実録』貞観6年7月17日の記録に

甲斐国言。駿河国富士大山。忽有暴火。焼砕崗巒。草木焦殺。土鑠石流。埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯。魚鼈皆死。百姓居宅。与海共埋。或有宅無人。其数難記。両海以東。亦有水海。名曰河口海。火焔赴向河口海。本栖剗等海。未焼埋之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難弁。然後有此災異焉。

とあり、今度は甲斐国側が噴火の被害を報告している。こうやってみると噴火の報告は甲斐国でかなり遅れているが、それほど被害が大きかったのだと解釈されることが多い。

このとき「セの海」が分断され、現在の「精進湖」と「西湖」が形成されている。つまり元はくっついていたわけであり、甲斐国の地理を一変させるほどの噴火であった。

『日本三代実録』貞観6年8月5日の記録に

下知甲斐国司云。駿河国富士山火。彼国言上。決之蓍亀云。浅間名神祢宜祝等不勤斎敬之所致也。仍応鎮謝之状告知国訖。宜亦奉幣解謝焉。

とあり、中央側から甲斐国に「駿河国が亀ト(きぼく)を行い富士山の噴火の原因をつきとめたところ、浅間明神の禰宜・祝らが斎敬を怠ったためであったと言上してきたので、駿河国司に浅間明神に鎮謝するよう告知した。したがって甲斐国も駿河国の浅間明神に解謝せよ」と言った。

この記述から「駿河国に浅間神社は存在するが、甲斐国にはこの時点で存在していない」ということは明白である。この事実は非常に大きく、浅間神社の由来を駿河国に限定することができる。またこの「浅間明神」については、富士山本宮浅間大社を指すとされている。文中にある「浅間名神祢宜祝等」とは現在の富士山本宮浅間大社の神職を指すのである。

『日本三代実録』貞観7年12月9日の記録に

勅。甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝祢宜。随時致祭。先是。彼国司言。往年八代郡暴風大雨。雷電地震。雲霧杳冥。難弁山野。駿河国富士大山西峯。急有熾火。焼砕巌谷。今年八代郡擬大領無位伴直真貞託宣云。我浅間明神。欲得此国斎祭。頃年為国吏成凶咎。為百姓病死。然未曽覚悟。仍成此恠。須早定神社。兼任祝祢宜。々潔斎奉祭。真貞之身。或伸可八尺。或屈可二尺。変体長短。吐件等詞。国司求之卜筮。所告同於託宣。於是依明神願。以真貞為祝。同郡人伴秋吉為祢宜。郡家以南作建神宮。且令鎮謝。雖然異火之変。于今未止。遣使者察。埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮。垣有四隅。以丹青石立。其四面石高一丈八尺許。広三尺。厚一尺余。立石之門。相去一尺。中有一重高閣。以石構営。彩色美麗。不可勝言。望請。斎祭兼預官社。従之。

とあり、噴火から1年半経過し、甲斐国八代郡に浅間明神祠が建立され官社に列し、祝や祢宜がおかれ祭が行われることとなったと記している。

『日本三代実録』貞観7年12月の記録に

令甲斐国於山梨郡致祭浅間明神。一同八代郡。

とあり、山梨郡にも浅間神社が建立されている。つまり富士山噴火により「八代郡と山梨郡」にそれぞれ浅間神社が建立されているのである。

これら一連の動きについて、「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」では以下のように分析している。

当時甲斐国は中国であり、駿河国は上国であった。(中略)この時期に甲斐国は国力を増進させていることがわかる。甲斐国府の移転もそれと関連しているという指摘もある。そこで、甲斐国司や其の配下の郡司らは、富士山噴火のパニックを機に駿河と同じ浅間神を祀る神社を造ること、それも他に類のない壮麗な石造の社にしつらえて、力量を誇示し、この神の加護を得て甲斐の国土の安全をはかること、(中略)駿河国と互角の国になる、という政治的意図もあったであろう。
としている。

  • 八代郡の浅間神社はどの浅間神社を指すのか

甲斐国初の浅間神社は、『日本三代実録』では八代郡に建立されたことを示している。『和名抄』によると、国司が勤務する国府は八代郡であったという。つまり甲斐国の中心は八代郡であったということになる。その八代郡であるが、この時代はある同一の場所でも郡の所属は変移しているという事実がある。そのため、郡の範囲としては計りがたい部分がある。例えば現在の南都留郡の一部も、この時代は八代郡に属していたと考えられている。

また『日本三代実録』貞観7年12月9日条の「郡家以南作建神宮」という記録は注目される。これは「八代郡家の南方」という意味であり、八代郡の中でも南方の位置に建立されたことを示している。そうするといっそ「現在の南都留郡辺り」は無視できない。多くでは、以下の3説が有力視されている。

  • 一宮浅間神社(甲斐国一宮)
  • 市川大門の浅間神社
  • 河口浅間神社

また「埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮」という記録も無視できない。「湖を埋めた地点より千町程離れたところにあり、仰ぎみると富士山の山頂を背にして浅間明神祠がある」と言っている。富士山から近いとも遠いともどちらもとれるような印象であるが、仰ぎ見るという表現はあまりに遠い場所というわけでもないと思える。中世以降の言い方であるが、いわゆる「国中」(甲府盆地)辺りでは明らかに富士山は隠れており、「仰ぎみる」という状況にはないと思える。また市川大門も富士山からみて西方向に遠く、仰ぎ見るという状況にはないと思える。そうすると、個人的には「河口浅間神社」が有力に思える。実際最近は「河口浅間神社説」が有力視されてきています。逆に「北口本宮冨士浅間神社」という説はほとんどない。そもそも北口の浅間社が形成されたのは16世紀以降と考えられている。

  • 参考文献
  1. 菅原征子,「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」『シャーマニズムとその周辺』,第一書房,2000

竹取物語に見える富士山

『竹取物語』はかぐや姫の物語であるが、作者・成立年共に不明である。史料実証的な取り組みをしても、はっきりしないようである。『竹取物語』の影響は富士山にももたらされており、たとえば「富士山縁起」などにも富士山とかぐや姫を結びつける記述が見られる。しかし富士山とかぐや姫の結びつきから、かぐや姫のモデルを「コノハナノサクヤビメ」に求めることは誤りであるように思える。実際の富士山信仰では、コノハナノサクヤビメが祭神と考えられるようになったのは江戸時代以降であるためである。

『竹取物語』において、富士山に関する記述は最後の「段登天の段」にみられる。


かぐや姫の美しさを聞いた男たちはこれを妻にしようとしたが、かぐや姫の出す難問に答えられず、果たせなかった。帝でさえも果たせず、姫は月に帰っていった。姫は帰るにあたり不死の薬と手紙を帝に贈った。しかし帝は塞ぎこんでしまった。

帝は大臣・上級役人を呼んで「どの山が最も天に近いのか」と聞いた。そこである者が「駿河国にある山が、都からも近く、天に最も近いそうです」と答えた。それを聞き帝は「逢うことも出来ず涙に浮かんでいるような我が身に、死なぬ薬が何の役に立とうものだろうか」と歌に書いた。帝は不死の薬の壺に手紙を添え、使者に託した。帝は使者に「月の岩笠という人を呼んで、駿河の国にある山の頂きに持っていくように」と命じた。そして山頂ににてすべきことをお命じになった。「手紙と不死の薬の壺を並べ、火をつけて燃やすように」という内容であった。その旨を承り、兵を連れ駿河の国の山に登ったので、その山を富士の山と名付けたという。手紙と不死の薬の壺を焼いたその煙は、今も雲の中へ立ち上っていると伝わる。

これは富士山の由来の1つに数えられているが、伝説的な部分として語られる中での話なのであり、史実ではない。ただこのように、当時富士山と女神(かぐや姫)を結びつける考え方があったことは間違いないだろう。

「富士-信仰・文学・絵画」では以下のように説明を加えている。

しかし不死の妙薬をなぜ富士の頂で焼かなければならなかったのであろう。それは富士の頂が天に最も近い場であるからであることは、ここに述べられている。かぐや姫は天にいる。その姫に帝の想いを伝えるには、富士の頂から開かれている通路を通してするほかない。しかもこれは恋い慕う思いである。すでに万葉の時代から恋の想いは富士の煙に託されてきた。その意味でも妙薬は富士の頂きで焼かなければならなかった。また焼かれた妙薬が不死の薬であったことも重要である。後にもふれることになろうが、高山は死と再生の場であると考えられている。そういう場でこそ、不死の薬が焼かれるべきなのである。そして、その焼く行為はいつまでも終わらない。いつまでも煙をたちのぼらせ続けるのである。そこへ立てがあるいは不死を得ることができるかもしれない。不死を得ることができないまでも、新たな生気を得て命を長らえるかもしれない。そんな山岳信仰の不思議を伝えて、『竹取物語』は極めて興味深い。

「富士山と煙」というのは、古来の和歌でもセットとなっていることは多い。

  • 参考文献
  1. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995

2013年5月1日水曜日

富士宮市と無縁・公界・楽

富士宮市というところは、「無縁的」な場所が多く存在していた場所とされる。「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」には以下のようにある。

今川氏の分国、駿河・遠江国には、「無縁所」が多い。駿河についてみれば、弘治2年(1556)に今川義元、永禄3年(1560)に氏真の判物を与えられ、諸役等の免除、不入を認められた富士郡の久遠寺、同じく永禄3年、氏真判物で同様の特権を保証された本門寺(北山)、天文3年(1534)の氏輝、天文5年の義元、永禄3年の氏真判物によって「門前之内棟別」等の諸役を免許された大石寺、天正11年(1583)、徳川家康朱印状により「寺内諸役免許」を保証された妙蓮寺等があり…(中略)こうした諸寺は今川氏当主の代々の判物を与えられていること、つまり今川氏との縁によって支えられていたのである

とある。「久遠寺」「本門寺」「大石寺」「妙蓮寺」はすべて富士宮市に在地する寺院である。つまりは言い換えると、「富士宮市は無縁所が多い」と言う事ができる。


これら富士五山とも称される寺院が軒並み「無縁所」とされていたことを考えると、富士宮市を「無縁」という概念で総合的に捉えてもよいはずである。当時富士上方という地域が内外により「無縁所的集約地」と把握されていた可能性もある。


若挟国に万徳寺(旧正昭院)という寺があり、その寺は戦国期に「駆込寺」としての性質を持っていた。当時若挟国は武田氏が守護を務めており、当国に関わる文書を発布していた。その過程で武田元光により発給された文書には、正昭院を「無縁所」であるとした上で武田氏の祈願所と定める旨の内容がみられる。そして子の武田信豊の発給文書には「正昭院を駆込寺の特権をもつ寺」として保証する旨の内容が含まれている。これらの事実を合わせ、「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」では以下のように説明している。

注目すべきは、さきの文書で、この寺が「無縁所」であった、といわれている点である。元光はそのことを前提としたうえで、「寺法」を定め、祈願所としているのであり、とすれば、課役免除、徳政免除を含む掟書も、また信豊が公認・保証したさきの駆込寺の規定も、まさしくこの寺が「無縁所」だったことに淵源をもっているとみて、まず、間違いないと思われる。とすれば、縁切りの原理は、戦国時代、「無縁」といわれていたことを、ここに確認することができる

とある。駆込寺といういわば「縁切り」としての性質は、「無縁」という概念があってこそ成り立っているということになる。「無縁」は物でもあてはまるようで、物の場合「無縁的なものとなる」ことで、世俗的な争いが踏み入れないものとなると見なされていたようである。

「「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰」には「仮名目録追加」十四条の「違法な訴訟に対してその取次をした奏者の罰金を浅間社造営費とする」という内容について以下のように説明している。

ここでは浅間社造営費と称して係争地や罰金が処理されることに注目したい。これは単なる浅間社保護政策に留まらずに、係争地や罰金を造営費として寄進することで、対象を「神物」へと変化させる法的な行為で、これにより係争地や罰金が世俗と縁の切れた「無縁」のものになることで、論争の対象から切り離されることを意図したものと解釈できよう。この前提には、「神物」に転化させることによる「無縁」性が当時の人々の共通理解の中で納得される処理の仕方であったこと、その神の意志である富士浅間信仰の影響力を垣間見ることができる

と説明している。ある種「容易に介入できないもの」に変化している点では、同質のものに思える。これは「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」で「織田信長の雲興寺に対する禁制」への解釈の部分と共通するものがある(P45-49)。

また「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」では以下のような記述がみれれる。私はこれが、まさに大宮と一致するように思えてならない。

もう1つ注目すべき点は、金屋、正昭院の位置する遠敷川がきざんだ谷の入口に、遠敷市といわれた古くからの市場があり、北川の川上の山の1つへだてた谷にある東市場と相対していることである。遠敷市は若挟国二宮、若挟姫神社の門前、国分寺の傍にあり、金屋の谷を遠敷川にそって遡ると、谷の奥近くに一宮若狭彦神社が鎮座しているので、この市場は一・二宮、国分寺の門前の市場とみてよかろう。(中略)遍歴する「芸能」民、市場、寺社の門前、そして一揆。これらはじつはみな、「無縁」の原理と深い関係をもっているのであるが(P40)…

ここから浅間神社の門前、そしてその門前にて施行された楽市令につなげていきたいと思う。有名な「織田信長制札」について網野氏は以下のように説明している。


いわばこの第1条は「無縁」「公界」の原理を、集約的に規定したものであり、「楽」の原理もまたまさしくここにあるといわなくてはならない。前掲の多くの例と同じく、この市場も「無縁」の場であった。そしてこう考えてくれば「無縁」「公界」「楽」が全く同一の原理を表す一連の言葉であることを疑う余地は全くあるまい。(P108)


そして「富士大宮楽市令」で安野氏は「無縁の原理」について触れている。

「楽」とは「娑婆」の世界と対比される「極楽」の意味だと云われている。先に反転する世界としての「市場」を,ⅰ~ⅸの9つの特徴を持つものとして説明したが、今川領のように、小領主たちが「政所」等々の施設を通じて市場に介入することは、市場を「神仏事興行」から遠ざけ、限りなく「娑婆」の世界に近づけるものであった。それ故市場本来の在り方を求める人々からすれば、権力介入の排除は当然で、その「楽市令」は網野氏の云う「無縁論」の展開として位置づけられよう。(中略)このような中での「楽市」とは何かを云えば、外来商人達を定住商人達である市場住人の「法の保護下」に置くこと、定住商人達と外来商人達が1つの共同の法の下にあることを作り出すことであった

だとすれば、この富士大宮楽市令によりアジール的性質をもつ場所が大宮に形成されたととっても良いと思うのである。そしてそれは、駿州往還を行き来する者、道者などにとっても大きく影響を与えたものだと思う。

「1つの共同の法の下にある」といういわば守られた空間であり、一方「法を破ると然るべき処罰を受ける」という空間だと思うのである。

そしてそのアジール性は、富士信仰のもう1つの拠点である村山も同様に思える。「戦国期における村山修験」はそれを指摘している。以下は天文22年5月の今川氏による掟判物である。


この判物について以下のように説明している。

こうした禁止令が出されている以上、その裏側の事実は、現実にあったことであると見なければならない、。「汚穢不浄者」が、あるいは物乞、乞食等の所謂「無主・無縁」の人々をさすのなら、それは後に触れる村山の持つアジール的性格によるものとも考えられる。

ほとんどの条において、この空間内における保証や平等性を示しており、この判物は村山のアジール性を強く示している。

また以下のようにも記している。

こうした村山のアジール的性格が何時の時代から発生し、発展してきたかは不明であるが、その解決の糸口として、村山の「山」としての性格を考えたい。網野善彦氏は、その著『無縁・公界・楽』の中で、中世前期には、山林そのものが-もとよりそのすべてというわけではないが、-アジールであり、寺院が駆込寺としての機能を持っているのも、もともとの根源は、山林のアジール性、聖地性に求められる。と述べられているが、この掟判物にみられる村山のアジール的性格も、その根源的基盤は富士山が太古から持っていた、山としての神秘性、聖地性にあるのではなかろうか

一条目の「村山室中」という特殊な表現は、はやり空間としての特殊性を示しているとみて良いと思う。そして他の条もそれにかかるものだと思う。

「無縁」的なものが「信仰的空間・モノ」を媒介としやすいことは間違いないと言える。そして無縁所が多いという事実は、富士上方が信仰上有意義な場所であったからである、と思うのである。そしてそれは「富士山」という存在があって成立していたのだと思う。富士上方という場所が、「富士山を背景とする総合的無縁所」と言える状況にあったのだと考えている。

  • 参考文献
  1. 網野善彦,『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版),平凡社, 1996
  2. 安野眞幸,『富士大宮楽市令』弘前大学教育学部紀要,2002
  3. 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960
  4. 大高康正,「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰,帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要8,  2006

紙本彩色富士曼荼羅図を考える

以下「紙本彩色富士曼荼羅図」(静岡県立美術館蔵)である。


江戸時代初期(17世紀始め)辺りの作例とされており、富士山本宮浅間大社を大きく描いている。この富士曼荼羅図で特筆すべきは、中央に描かれる浅間大社のその建築であろう。浅間大社が現在のような「浅間造」となったのは、江戸時代以降とされている。そして、当曼荼羅図の社殿も「浅間造」でありため、「江戸時代以降の作例だろう」と解釈できるわけである。

またこの「浅間造」は、徳川家康が造営したものと云われている。それは以下の文言が該当するであろう。「幕府裁許状」(1779年)というものがあり、ここには大宮と須走の論争に関する経緯とその裁許(結果)が記されている。そこに以下のようにある。

慶長5年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社不残御再建被為成、其後散銭等は修理に可致旨、…

つまり慶長5年の関ヶ原の戦いでの勝利が成就したことから、家康は浅間大社の本社末社残らず再建して、それだけでなく富士山の散銭までも寄進したのである。その記録が「幕府裁許状」という正式な文書で盛り込まれていることから、信ぴょう性はかなり高い(これ以外にも記録はあったかもしれません)。多くで、その際「浅間造」となったと考えられている。


  • 湧玉池


湧玉池と水屋神社が描かれている。道者の姿もみられるが、池内には見られない。


  • 社殿


二重楼であり、いわゆる浅間造である。現在の富士山本宮浅間大社に近い形態である。境内に女性の姿も見られる。

境内周辺の馬に乗る者たち
服装からは社人というより、在地の一般民衆のように捉えられる。


川に跨るようにして位置する建造物である。社頭絵図の写(下部に掲載)にも同様の部分に建造物がみられる。

三重の塔
神仏習合を象徴するかのように存在する「三重の塔」である。浅間大社の境内に古来は三重の塔が存在したことは明白で、寛文10年(1670)の社頭絵図にも「三重の塔」がみられる。


護摩堂などもみられるが、例えば1560年の「今川氏真判物」には以下のようにある。

富士大宮司別当領之事(中略)然者社中護摩堂年来断絶之上、…

また位置もほとんど同様であることを考えると、当図を参考にして描いた可能性もある。他、各建造物も比較できるものと思える。

  • 村山周辺



村山周辺はほとんど詳細な描かれ方はされていない。


ここには白衣を纏った道者が数人見て取れる。また緑色?に着色されたような箇所があり、これは水場であろうか。ただこれは大日堂(上の建造物)と捉えるのがすんなり理解がいくように思える。


  • 山頂



阿弥陀三尊である。


全体的には明らかに本宮を主体とした富士曼荼羅図である。また浅間大社の神仏習合を裏付ける史料として、また当時の建築を考える上でも参考となる富士曼荼羅図であると思う。
  • 参考文献
  1. 富士山世界文化遺産登録推進静岡・山梨両県合同会議編 ,『富士山 信仰と芸術の源』,小学館,2009年
  2. 富士市立博物館編,『富士山信仰と富士塚』,2000