2014年12月1日月曜日

富士金山を取り巻く武田氏と後北条氏と富士大宮司

まずは、ある文書を載せてみたいと思う。


これは天正10年(1582)3月6日の北条家朱印状である。内容は「富士金山の金山衆を富士大宮司一同に付属させる」という内容である。大宮司一同は「=富士氏」であるが、つまり富士金山衆が富士大宮司に従うよう命じた文書である。

これらのことを後北条氏が命じているという状況に、歴史の展開の早さを感じるものである。なぜ後北条氏がこのような文書を発布できたのかというと、武田家が滅亡したためである。代わって、富士郡を統治する立場として後北条氏が出てきたのである。

注目すべきは、その内容である。「大宮司一同」とあるが、当時の富士大宮司は富士信通である。またこの文書が出された次年(天正11年)に、先代の富士家当主富士信忠は死去している。内容から推察するに、おそらく後北条氏は富士家を再び武家として推すつもりであったと考えられる。そして北条家の戦力としようとしていたと考えられる。

具体的に、富士金山衆はどのような存在であったのだろうか。それは武田氏が統治していた時代の文書に答えがあるかもしれない。武田氏支配の時代は、武田氏に属する穴山氏が管理を行っていた(そもそも武田氏支配といってよいかは分からない)。


穴山信君が金山衆の者の諸役免除を認める内容である。また以下は、穴山信君の家臣が金山衆の者に屋敷等の安堵を認める内容である。


このことから、富士金山は穴山氏が支配していたと言える。この文書に関して「金掘と印判状」では以下のように説明している。

これは穴山氏の家臣有泉大学助昌輔が富士金山衆望月弥助に対し、十右衛門跡式の相続を認めた継目の安堵状であるが、ここで相続の対象として「家屋敷」・「堀間所」(坑口)と並んで「子方」があげられていることに注目したい。富士金山においても黒川金山同様、親方-子方組織の存在を裏付けることができるのである。

相続の対象に「堀」が含まれていたようである。つまり金山衆は個々で自分が担当する堀が決まっており、それは「財産」に等しかったのである。また子方は子分として属していたと考えられる。

このような親方-子方組織から構成されるのが金山衆であり、その金山衆は富士氏に属する形となっているのである。富士上方の実力者である富士氏に金山衆を付属させるということは、新たな権力を与えるということであり、これは後北条氏の戦略であると言える。

しかしその後、当地にて後北条氏の介入はみられなくなる。富士金山に対してというだけでなく、駿河国自体に対しての介入がほとんどみられない。これは武田氏滅亡に伴い、徳川家康が織田信長より駿河一国を与えられたためである。北条家朱印状は武田氏滅亡直後または武田勝頼自刃直前に出されたものであり、また情勢は分からなかったのであろう。

  • 参考文献
  1. 桜井英治,「金掘と印判状」『中世をひろげる 新しい史料論をもとめて』,吉川弘文館,1991

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