2017年5月8日月曜日

戦国時代の富士川流域の役割と船方衆

駿河国には日本三大急流である「富士川」が通っており、富士川を基とする歴史も多い。以前「富士川の歴史民俗編」にて富士川の歴史を投稿したことがあり、富士宮市に所在する「問屋跡」などを取り上げました。
問屋跡(富士宮市沼久保)
しかしこれはどちらかと言えば近世の歴史であり、もう少し遡って中世における富士川との関わりを模索する必要性も感じていました。今回は中世における富士川の歴史を、駿河国に焦点を当てて進めていきたいと思います。まず富士川とはいっても流域は広大なので、場所を限定していくこととする。富士川の歴史を現在の富士地区(富士宮市・富士市)にて考えた際注目されるのは、「橋上(はしかみ)」の地である。まず橋上の地は駿河国内房にある。



これら文書から、橋上の名主が「森彦左衛門尉」なる人物であったことが推測される。上の文書は居屋敷の竹木を勝手に切り捨てることを禁じ、その場合指示を出すことを伝達した文書であり、これらは各々でよく見られる内容である。下の文書は示唆するところが多い。「先年乱中走廻云、殊昼夜河舟労功之条、為新給恩免除訖」とあり先年、つまり河東の乱において今川氏側として働いていたことが分かる。「殊昼夜河舟労功之条」とあり、おそらく今川氏の兵を川向こうへ運送したりする形で奉行を働いたのであろう。ここに、戦時に兵の運送という形で舟運を行い、それに対して国主により諸役免除が行われるという動態が確認できる。川向うへ移動するために舟運が必須であり、兵の数が戦の戦況を変える事態においては重要であったのだろう。

この橋上の地は現在の「富士宮市内房橋上」であり、地名として残る。



一見して分かるように富士川流域であり、これを今川氏が押さえていたのである。これは富士川の歴史の重要な一幕であろう。ただここから急展開を見せる。今川義元が桶狭間の戦いにて横死し、勢力図が変わってきたのである。そこで以下の文書はその変化を明確に見せている。


まずこの文書の発給時期は永禄13年(1570)であり、氏元が永禄12年に今川方の大宮城(城主:富士信忠)を攻撃していることを考えても、氏元は既に今川氏を離反していた時期である。その人物がこの時期に橋上の船役所に指示を出すということは、おそらく橋上の森氏ないし船役所は武田氏側に就いたのであろう。ただそれ以前に葛山氏と関係が深かった可能性も考えられ、それは他文書との比較が必要である(※森家文書は10通が確認されているといい、現在確認中である)。内容は橋上の船役所に対して「瀬名信輝」およびその同朋を通すよう伝達した文書である。瀬名信輝も葛山氏元と共に武田氏に帰順した人物であるため、このような内容となっている。

以下は更に武田氏側であることが明確に分かる文書である。穴山信君が橋上の森彦左衛門および船方衆に対して筏役(いかだやく)を勤めている見返りとして他の百姓にかかる税を免除するという内容である。

このことから、この時少なくともこの辺りの富士川流域は穴山氏が掌握していたことが分かる。穴山氏は河内の領主であり、この橋上の地は特に近接するため早い時期に掌握されたと考えられる。

穴山信君
宛として唯一個人で載る「森彦左衛門」は、やはり名主の地位を維持していたと考えられる。

  • 参考文献
  1. 山梨県立博物館,「武田二十四将―信玄を支えた家臣たちの姿」展示図録,2016
  2. 有光友学,「戦国大名今川氏発給文書の研究」『横浜国立大学人文紀要 24』, 1978 
  3. 『静岡県の地名』 (日本歴史地名大系) ,平凡社,2000 
  4. 平成18年度山梨県立博物館年報