2017年10月6日金曜日

富士宮市域の名族佐野氏と富士氏を今川氏武田氏後北条氏動向から探る

以前「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」にて武田氏による駿河侵攻以前より今川氏ではなく後北条氏方に与したと考えられる富士家一族の人物について取り上げた。

※このページでは『役帳』の記録は駿河侵攻以前を反映しているという仮定で進めています


『小田原衆所領役帳』(以下『役帳』)によると、後北条氏の領地である「東郡片瀬郷」が富士氏に知行されており、富士家一族の中でも後北条氏側に近接した者が居たことを示している。これが武田氏の駿河侵攻以前の状態を反映している記録であるとすれば、富士家の内部分裂を想定しなければならない。そしてこの『役帳』の富士氏が、「富士常陸守」であると指摘する文献は多い。『中世東国足利・北条氏の研究』では

とくにこの『役帳』の富士氏は、元亀元年(1570)4月に北条氏康が早川の海蔵寺に禁制を下した際、その責任者として見えた富士常陸守某ではないかと考えられている

としている。『後北条氏家臣団人名辞典』ではこの点について説明している。

元亀元年4月26日北条氏康禁制写では相模国早川(小田原市)の海蔵寺に禁制を掲げ、違反する者は富士常陸に申し断る事とした。海蔵寺は大森氏と関係する寺であることから『役帳』の富士某と富士常陸は同一人物

これは大変に重要な指摘である。つまり以下のようになる。『役帳』の片瀬郷は現在の藤沢市に位置する地であるが、その地を富士氏と共に大森氏が知行先として得ていた。ここに先ず両者の関係性を見出すことができる。そしてその大森氏と関係の深い海蔵寺に禁制が掲げられた際、その監視役的位置づけとして「富士常陸守」が出てくるのである。ここでも大森氏と富士氏との接点が見出だせる。

大森氏については池上裕子,「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」の解説を参考にすることとする。

北条以前にこの地(注:小田原のこと)にいた大森氏は、駿河国駿東郡大森(裾野市)を本貫の地とした国人であるが、関東公方足利持氏に結びつき、忠節を尽くしたため、上杉禅秀の乱後の恩賞で小田原を領することになった。大森の一族には箱根別当がおり、また大森は駿東郡北部をも支配下にいれていたから、小田原、箱根、足柄、駿東郡という、関東の西の境を固める目的で、持氏がこれを小田原に入れたことは疑いない。

とある。参考であるが、大森氏と関係するとされる竹之下孫八左衛門頼忠は「竹之下藍沢氏家伝」に「其後富士の大宮に住す」とあり、余生は富士大宮に居住していたようである(『裾野市史』第二巻 資料編 古代・中世 別冊付録)。


禁制は戦時における安全保障として大名側が出すものであり、寺社領内における軍勢乱入や狼藉を禁止する内容が織り込まれていることが多い。当文書も寺領内での狼藉等を禁止する内容である。このことから、この富士氏は小田原においても知行を得ていた可能性があり、少なくとも当地で一定以上の権限を得ていたのである。後北条氏の被官として捉えられなくはない記録がこの2つしかなく(役帳および禁制)、同一人物ではないかとしているのである。

ただ同文献(『後北条氏家臣団人名辞典』)では富士常陸守を「大宮司職」としていたが、当ブログではそれを示す史料は確認できなかった。むしろ大宮司職でないがために、『役帳』の富士某が富士常陸守である可能性が高まるのである。『役帳』の富士某は富士大宮司とはとても思えないのである。

また永禄12年(1569)「武田信玄判物写」にも富士常陸守の名が見える。

この文書で富士家の人物として「富士能登(守)」「富士常陸守」「富士左衛門」「富士兵部少輔」がそれぞれ出てくる。まず富士能登守は富士信通、富士兵部少輔は富士信忠である。富士左衛門は不明。

そして「富士常陸守」であるが、永禄12年(1569)の武田氏側の発給文書と元亀元年(1570)の北条氏側の発給文書にそれぞれ「富士常陸守」が見える点を考えなければならない。このとき富士常陸守が富士上方の精進川・山宮の地を有し、そしてそう違わない時期に相模国でも動向が確認できるということなのである。駿河侵攻(1568年-)において富士氏は後北条氏の庇護を受けるが、それに伴う体制であろうか。また役帳の富士氏であるが、役帳の成立およびそれを反映する時代が駿河侵攻を遡るとすると、これはとても同一人物とは思えないのである。

そしてこの文書の宛は「佐野惣左衛門尉」である。佐野氏は言わずと知れた富士郡に土着した氏族であり、富士郡でも「稲子」を根拠地とする氏族である。現在富士地区(富士宮市・富士市)に多く分布する佐野姓の大元とされ、いわば佐野の故郷である

上稲子
この文書について小和田哲男氏は以下のように説明している。

佐野惣左衛門尉は上稲子(現在、富士郡芝川町上稲子)の土豪であった。今川氏に仕え、大宮城の富士氏の指揮下に入っていた。富士氏を寄親とする寄子だったものであろう。ところが、周知のごとく、永禄11年(1568)12月、信玄率いる大軍が甲斐・駿河国境を越えて駿河になだれこんできた。そのとき、上稲子は武田軍の通り道だったこともあり、いち早く、佐野惣左衛門尉は信玄の軍門に降っている。この知行宛行状はそのときの功績によって与えられたものである。この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである。(中略)注目されるもう1点は、富士兵部少輔信忠の子富士能登守信通の屋敷が稲子と野中にあったことである。野中は現在の富士宮市野中東町に比定されるので、大宮城下の屋敷ということになるが、稲子にも屋敷をもっていた点は注目される。

としている。まず稲子は甲斐国の河内地区に隣接しており、国境に位置する。このことから早くに武田氏に降った背景は容易に理解できる。野中ですら大宮城が位置する狭義の「大宮」からするとやや離れた箇所の印象があり、また稲子は更に距離を有する。つまり富士氏は、富士上方各地に屋敷を有していたと考えて良いだろう。それは支配領域といっても良く、富士氏の富士上方での権力の一端を示すものである。「富士能登分但浅間領除」の「浅間領」は当然浅間大社領のことである。当文書は駿河侵攻で大宮を手中に収めた場合、それら土地を代わって佐野氏に充てがうという内容である。

武田氏はこのとき「大宮城の戦い」で2度目の攻勢を仕掛けたという段階であり、しかもその戦いで穴山信君と葛山氏元の連合軍は富士氏に敗れているという段階なので、まだ大宮の平定どころか大宮城すら落ちていない状況であった。小和田氏が"この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである"と述べているのは「まだ大宮は奪われていないのに佐野氏に知行を与えている」という意味であり、指摘の通りである。また現在ここまで佐野姓が多いのは、おそらく富士上方各地に散らばっていた富士氏領に佐野氏がより広範囲に住むようになったためであろう。

さて、上記の「武田信玄判物写」は以下のような過程があって現在翻刻に至っている。

この「佐野氏古文書併甲斐国志」を、私はたまたま東京の古書店で買入した。佐野氏関係の古文書は、これまでに活字となったものを何通もみていたので、はじめのうちは、本書に所収されている古文書もすべて活字化されているものとばかり考えていた。ところが、調べていくうちに、ほとんどが未紹介のものであることが明らかになった。何と、文書総数22点のうち、15通までがこれまで未紹介、すなわち新発見のものであった。(中略)いずれにせよ、写しとはいえ、戦国期の古文書がこれだけ大量にみつかったのは稀で、武田信玄による駿河侵攻の過程、さらに、武田勝頼および穴山梅雪による駿河国富士郡支配の実像が浮き彫りになってくる文書群である。

この発見により、富士宮市の佐野氏の実像が大きく判明したのである。まずこの事実は挙げておきたい。従来から伝わる「佐野氏文書」は若林淳之,「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」にて「佐野文書(富士宮市大岩)に包括され所蔵されている文書であって、佐野氏によって代々継承されてきたもの」と説明されている。これら従来の佐野氏関係文書、またこの「佐野氏古文書写」からいくつか抜粋していきたい。まず佐野氏が従来よりこの上稲子に在住してきたことが分かる文書を挙げたい


この文書について小和田氏は以下のように説明している。

この文書は注目される文書である。佐野宗左衛門尉、すなわち惣左衛門尉の知行地が上稲子にあったこと、そして、佐野惣左衛門尉が本来勤めなければならなかった棟別役ならびに御晋請役が特別に免除されていたことである。(中略)しかも「如先方之時」とあるように、それが今川氏時代からの慣行だったことも分かる

これら文書から、従来より上稲子に佐野氏が土着していたことが分かるのである。伝承の域は出ないものの、源平合戦で敗れた平維盛の家臣「佐野主殿頭」が稲子の地に土着したことから佐野氏は由来するという。また西山(旧芝川町)の地頭である大内安清の孫「雅楽助」が佐野姓を名乗ったためともいう。これら伝承も含めて、中世期より佐野氏が根拠地としてきたことは疑いようがない。



この文書は佐野善次郎宛の文書である。この人物も稲子への知行を受けている。他「佐野氏古文書写」より多くの佐野姓の人物が確認できる。

また以下の文書は興味深い。


穴山信君から佐野善六郎への偏諱である。つまり穴山信君は、自身の「君」の一字を佐野善六郎に与え「君」と名乗らせたのである。このときの佐野氏と穴山信君との深い関係を思わせるものであり、着目すべきものである。鉄山宗鈍という高僧が記したという法語・香語録『鉄山集』によると、信君は「のぶただ」と読まれたという(『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』)。ここから推察するに、おそらく君胤は「ただたね」と読まれたであろう。また小和田氏は佐野氏古文書写のうち天正19年(1591)に比定される文書等から以下のように説明している。

武田氏のあと徳川家康に仕えることになった佐野惣左衛門尉が、関東から故郷下稲子に居住している佐野氏同族にしたためた書状であろう。戦国期、下稲子において、佐野氏による一族一揆的な結合、すなわち、地域的一揆体制ができていたことを物語る史料である。(中略)下稲子の土豪佐野氏の内、佐野惣左衛門尉が武士化して村を出、佐野九郎左衛門らがそのまま村に残ったことが分かる。
この文書の場合、下稲子にも佐野氏一族が居たことが確認できる。佐野氏は上稲子・下稲子、つまり稲子全域に土着していたようである。佐野氏のその後は不明であるが、現在の状況が示すように、佐野氏は隆盛したようである。以前「元亀天正期の富士郡情勢を富士氏と小笠原信興から考える」にて、小笠原信興の富士郡転封に伴う富士郡の情勢変化を記した。特に柚野周辺は影響を受けた。近接する稲子周辺も同様であったようで、信興が佐野弥右衛門に宛てた文書が残る。


この文書について黒田氏は以下のように説明している。

宛名の佐野弥右衛門に対し、その屋敷の四壁の竹木について信興の被官衆による勝手な伐採を禁じるとともに、用所の際には印判状をもって所望すると規定したもので、いわば信興被官衆の非分の排除を保証したものである。その具体的な在所については不明であるが、佐野氏は駿河富士郡北部に多く初見される土豪層であるから、この佐野氏も同様であったと見られる。また、本文書の内容や、ここで印判が押捺されていることからみて、宛名の佐野氏は信興の被官ではなく、その知行地に在所する土豪層であったと推定される。

としている。また小笠原信興の転封で篠原氏もその影響を受けているが、実は「佐野氏古文書写」には篠原氏宛のものも含まれる。以下はそれである。



篠原氏は柚野を根拠地とする氏族であり、佐野氏の根拠地である稲子に隣接する。なのでここで篠原氏が出てくるのである。


「中世期の文書」と「現代」が見事にリンクしていることから(現在も柚野には篠原姓が多いし稲子には佐野姓が多い)、文書が正直であることを実感すると共に、佐野氏の原点が稲子にあったことが改めて確認できた。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,「史料紹介「佐野氏古文書写」」『地方史静岡 第24号』,1996
  2. 下山治久,『後北条氏家臣団人名辞典』,2006
  3. 佐藤博信,『中世東国足利・北条氏の研究』P165,岩田書院,2006
  4. 黒田基樹,「高天神小笠原信興の考察」『武田氏研究 第21号』,1999
  5. 平山優,『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』,2011
  6. 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号,1991

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